落梅

出版年 1894年
著者 ディットリヒ
出版地 ライプツィヒ
言語 英語、ドイツ語、日本語
ドイツ
分類 楽譜

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解説

〈落梅〉は、19世紀後半にお雇い外国人として来日し、「日本における西洋音楽の父」とも称される音楽家オーストリア人ルドルフ・ディットリヒによるピアノ作品です。滞日中、東京音楽学校で教鞭をとる傍らディットリヒは日本音楽の研究にも精力的に取り組みます。その経験から帰国後は、日本伝統音楽の旋律に西洋音楽の和声を肉付けすることで、耳馴染みのなかった当時の西洋人たちに日本音楽の魅力を広く紹介していきました。本作品もそのうちの1つで、筝曲「落梅」をピアノ作品として編曲したものです。

【お雇い外国人ディットリヒ】

 ディットリヒは1861年、オーストリア帝国領ガリツィア・ロドメリア王国 ビアラ(現在のポーランド領ビェルスコ=ビャワ)で産声をあげました。音楽教師をしていた父の影響もあり、幼少期よりピアノやヴァイオリン、パイプオルガンを学び、1878年17歳の時にウィーン楽友協会音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)へ入学します。4年間在籍した音楽院では、弦楽四重奏団をヘルメスベルガー、オルガン・和声・対位法をブルックナーやクレン、そしてピアノをシェンナーといった同時代の第一線で活躍していた音楽家から教えを受け、1882年の音楽院卒業後はウィーンでオルガニストとして活躍しました。
 その後ディットリヒは、東京音楽学校による外国人教師招請を受けたウィーン楽友協会音楽院長ヘルメスベルガーの推挙で1888年に来日し、同年11月から1894年7月までのおよそ6年間、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教師を務めます。同校での担当はヴァイオリン、オルガン、ピアノ、唱歌、和声学、作曲法。在職中にディットリヒは、その後に近代日本の洋楽界および音楽教育界を牽引する山田源一郎、幸田延、吉田信太、北村季晴、橘糸重、田村虎蔵、島崎赤太郎、頼母木駒子、永井幸次、鈴木鼓村、安藤幸ら多くの音楽家を育成しました。

【日本滞在中、精力的に取り組んだ日本音楽研究】

 ディットリヒは来日後、ほどなくして後進への音楽教育だけでなく日本音楽の研究にも着手します。そのきっかけは、文部省が発刊した日本初の音楽教科書『小学唱歌集』全三編への和声付けを依頼されたことにありました。日本の伝統的音楽は、いわゆる西洋的な和声を有しませんが、当時、日本の新しい国楽創成に奔走していた音楽取調掛および東京音楽学校は、音楽の近代化のためには和声が不可欠であると考えました。そこで文部省は、すでに当時、日本の俗曲を編曲して箏・ヴァイオリン・ピアノで演奏するなど和洋折衷的な編曲を披露していたディットリヒに、それまで旋律だけだった『小学唱歌集』の和声付けを依嘱したのです。『小学唱歌集』の和声付けをきっかけに、ディットリヒは日本音楽の魅力に目覚め、和声付けの作業終了後も多種多様な日本の歌を集めては音階を研究し、日本音楽への知識・造詣を深めていきました。

【帰国後、西洋に紹介した日本音楽の魅力―曲集《日本楽譜 Nippon Gakufu》の刊行】

 ディットリヒは1894年オーストリアに帰国すると、オルガニスト兼ピアニストとして活躍する傍ら合唱指揮者も務め、1906年にはウィーン楽友協会音楽院のオルガン教師、1909年には同音楽院の教授に昇任していきます。演奏家、音楽教育家として華々しい活躍を見せるなか、彼は帰国直後より日本を題材にした楽曲の創作に着手。まさに帰国年の1894年から95年にかけて、ピアノ曲集《日本楽譜Nippon Gakufu》Ⅰ・Ⅱを刊行するに至ります。

 《日本楽譜》は全16曲から成る作品集で、1888年に文部省が発刊した『箏曲集』に

《日本楽譜》

含まれる楽曲のほか、「琉球ぶし」「さくら」「権兵衛種時」「田植唄」などディットリヒ自身が実際に見聞した日本の旋律をピアノ独奏用に編曲したものです。いずれの作品も日本音楽の特徴を踏まえつつ、西洋的な和声の中に日本の旋律を嵌め込んだもので、ディットリヒ自ら述べた「ヨーロッパの音楽の友のために鑑賞に耐えうる」ように仕上げられました。19 世紀末、当時まだ日本音楽に馴染みのなかった西洋人の耳にも違和感なく受け入れられるよう日本の旋律を西洋風に編曲するというこの妙技は、日本音楽の研究を現地で精力的に行ったディットリヒだったからこそ成し得たといっても過言ではありません。

【ピアノ作品〈落梅〉の誕生】

 《日本楽譜》Ⅰの刊行と時期を同じくして、ディットリヒは1つのピアノ小品を発表します。それが、本作品〈落梅 RAKUBAI〉(1894年刊)です。ディットリヒは文部省・音楽取調掛撰『箏曲集』第1編の6曲目に掲載されている日本の伝統音楽作品「落梅」をピアノ作品として編曲し、副題には「散りゆく梅の花―琴伴奏による日本歌曲―」と附しました。
 ディットリヒによる〈落梅〉楽譜の冒頭には、以下のような邦楽曲「落梅」の歌詞が日本語のローマ字表記、ドイツ語訳、英語訳で掲載されています。

      〈落梅〉歌詞 

         年たちかへる春の空、垣根の草はいろづきて、
         柳の絲もうちけぶり、薫りもゆかし梅の花、
         をりもをりとて笛の音の、雲にひびけるここちして、
         花も散るなり、花も散るなり笛の音に。

 上記の歌詞は、「新年の春の風情を見ると、垣根の草は青く色づき、柳の枝は糸を垂れてけぶったように細く靡き、梅の花は馥郁となつかしく薫っている。そのとき丁度よい具合に笛の音が聞こえて来て、甲高い音色は雲のたなびく空まで響く心地して、その響きに花も散るのである。花も散るのである笛の音に」という意味が込められています。邦楽曲「落梅」は、もともと三味線音楽である地歌『言葉質』をもとに、山田流箏曲『江戸紫』の詞章を、明治期の俗曲改良運動に伴って改作、曲題を改めたものです。江戸期から明治期にかけて、広く民衆のなかで歌い継がれました。
 4分の4拍子、イ短調で著わされた本作品においても、ディットリヒは邦楽曲「落梅」の旋律や楽曲の世界観を崩すことなく、西洋的な和声で旋律を肉付けし、原曲よりややふくよかな印象を纏いつつピアノ曲〈落梅〉を完成させました。曲中には、「引き色」や「かき爪」といった筝の奏法を連想させる部分や邦楽曲特有の緩やかな長短のリズムも再現されており、日本音楽に造詣が深いディットリヒならではの細工が至る所にちりばめられています。
 ディットリヒは、日本音楽という異文化を自文化である西洋音楽の枠組みで理解しながら、その魅力を広く西洋で紹介しようと試みました。その姿は本来の日本音楽と完全に同一ではありませんが、しかしながら彼が伝えた日本音楽が半ば西洋化されたものであったからこそ、19世紀末から20世紀初頭の西洋で受容され、『日本楽譜』の「地搗歌」や「はうた」がプッチーニのオペラ『蝶々夫人』に素材として引用されるなど、その後の日本表象楽曲に多大な影響を及ぼしたと考えられます。

(解説:光平有希)

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