ライブラリー図書
日本:日本とその隣国と保護下にある国についての叙述と記録集
解説
本書は、江戸時代に来日した外国人で最もその名を知られる人物の一人である、シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)による主著です。
シーボルトはヴュルツブルク大学で医学や薬学、植物学など多彩な学問を修めたのち、しばらく開業医をしますが、1822年にオランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任命されます。当時のオランダはフランスによる占領からの復興期にあり、18世紀末に閉鎖したオランダ東インド会社に代わって、東インド植民地の直接統治と貿易振興策を刷新することが急務となっていました。日本に派遣されたシーボルトには、日本における「有用な」動植物、鉱物の採集と調査が期待されており、彼自身の強い関心もあって、本来の指令範囲にとどまらない日本研究を滞在中から精力的に行いました。よく知られるように鳴滝塾において診療と教育の許可が下りたのも、オランダ商館長の幕府への推薦が大きく、学問の発展と医療技術の伝授を名目にして、シーボルトの活動がより自由になるよう幕府に働きかけていました。
シーボルトは自身の研究に加え、高野長英らをはじめとする蘭学者にオランダ語で論文を提出させることで、直接日本と同じ水準の研究成果を得られるよう工夫しており、本書にもそこから得られた知見がふんだんに盛り込まれています。潤沢な研究資金を投じて、書物、地図、衣類、美術品や工芸品を収集し、動植物の剥製、標本作成、そして川原慶賀(通称は登与助)ら優れた絵師に様々な絵を描かせ、あらゆる分野での日本研究を進めました。
1826年の江戸参府では、伊藤圭介らが、ツンベルクによって伝えられていたリンネの分類法に従って日本の植物を説明してくることに驚かされています。また、この時、最上徳内から樺太や北海道(蝦夷)についての最新情報を入手し、長らくヨーロッパ人にとって輪郭が謎のままであった樺太についても、それが半島ではなく島であることを確認したばかりの間宮林蔵にも直接会って、その知見を得ています。
この江戸参府の際に出会った、幕府天文方の高橋景保からは、伊能図や北方の地図を得ており、これがいわゆる「シーボルト事件」へとつながりました。「シーボルト事件」は、幕府禁制品を含むこれらの地図などを積んでいた帰国船が嵐で座礁したことによって、偶然発覚した事件と言われてきましたが、現在ではそれ以前からすでに幕府が内偵活動を行っており、間宮林蔵と高橋景保との不仲なども背景に生じた事件であったと考えられています。シーボルト自身も厳しい取り調べを受けましたが、地図などの重要品については没収前にすでに複写が完了しており、彼のコレクションはそれほどの損害を被らなかったと言われています。シーボルトはこの事件で国外追放と再渡航の禁止を言い渡され、1829年に長崎を発ち、翌1830年にオランダに帰国しています。
本書は、日本で積み重ねた膨大な研究成果とコレクションを元に刊行されたもので、1832年から分冊形式での刊行が始められました。当時新しい印刷技術であったリトグラフによる図版を豊富に交え、大型の二つ折り版(廉価版は四つ折り版)で作成する、それまでの日本研究を刷新する画期的な書物として計画されましたが、その計画があまりにも壮大であったことも災いして、製作資金は莫大なものになり、シーボルト自身が私費を投じて製作、刊行せざるを得ず、次第に刊行が滞るようになります。結局20年近くの年月を費やしても完結させることができず、ついに1851年に第13回配本を持って未完のまま終わりました。完成した箇所からバラバラに分冊形式で刊行されたために、購入者がそれらを自分で整理して製本する必要があったこと、発行部数自体が非常に少なかったこともあり、本書は完本として存在するものが極めて少なく、また一つとして同じ構成のものが見つからないと言われています。
自身による最後の配本を行なった1851年の時点でも、シーボルトの手元にはそれまでの売れ残りや、印刷済みであるにも関わらず配本できなかった、蝦夷や琉球に関するテキストや一部の図版が残っており、シーボルトは再来日してからも本書の完結を目指していましたが、それを果たすことなく1866年に世を去ります。このことから、本書は「未完の大著」とよばれています。
シーボルトの死後、ロンドンの今に続く古書籍商であるクォーリッチ(Bernard Quaritch, 1819-1899)が、これらに着目し全てを買い取り、再整理した上で、独自の校合(Collation)とタイトルページを作成して、1869年に改めて「日本」を刊行しました。これが俗に言う「クォーリッチ版」と呼ばれるもので、既刊部分の本文や図版はシーボルトの手元に残されていたオリジナルをそのまま用いていますが、それらに未刊のテキストと図版を追加して、全6巻からなる7章構成として出されています。ただし、このクォーリッチ版も収録されている図版やテキストに様々なヴァリエーションがあり、また製本冊数もまちまちであることから、こちらも一つとして同じものが存在しないと言われています。
当館が所蔵するのは、このクォーリッチ版で、テキスト、図版がそれぞれ一冊ずつに綴じられています。最大で全367枚とされる図版のうち、317枚が収録されており、現存するものの中でも完成度が高い貴重なものです。廉価版である四つ折り版であるため図版に彩色は施されていませんが、前述のようにクォーリッチ版にしか見られない図版や地図が収録されている点も資料的価値を高めています。
テキストはクォーリッチの分類による全6巻からなりますが、奇妙なことに第2巻が欠落しているにも関わらず、章構成は7章全てが揃っており、内容としては完全と言えるものです。第1章では、日本の地理について主に自然地理学の見地から論じています。第2章では、日本の民族と国家の統治機構、風俗や習慣が述べられ、ここには自身の江戸参府の記録が盛り込まれており、最も充実した内容になっています。第3章は、歴史学や考古学、それに関連して神話や貨幣について扱っています。第4章は、様々な学問や芸術、そして言語についての考察に当てられます。第5章は、宗教について扱っています。第6章は、本来の任務であった農業や工業、貿易に関する事項を扱っており、最も実用的な内容と言えます。最後の第7章では隣国や保護下にある国として、琉球や蝦夷が扱われています。
前述のように、川原慶賀らによる優れた絵を元にした図版は、テキストに対応して同じ構成で配列されており、当時の人々の生活や文化、道具、宗教が様々な絵図によって示されています。ここに収められた図版は、ヨーロッパだけでなくアメリカにも強い影響を与え、これらを元にしたと思われる図版が、各国の書物や新聞、雑誌に次々と転載されていきました。また、日本北方地域や樺太についての正確な地図が初めて発表されたことにより、世界地図における最後の空白地域ともされていた同地域についての地理情報をヨーロッパに伝えたことも、本書の大きな功績です。
(執筆:羽田孝之)
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