ライブラリー図書
1770年から1779年にわたる、ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行
解説
トゥンベリ(ツンベルクとも、Carl Peter Thunberg, 1743-1828)は、スウェーデンの植物学者、博物学者、医者で、植物分類学の大家リンネ(Carl von Linné, 1707-1778)の高弟でもありました。アフリカ希望峰と日本の植物採取、調査を目的に、オランダ東インド会社船医として、1770年から日本を含む世界各地を回り、帰国後に本書を刊行しました。全4巻からなる大部の著作ですが、当時のベストセラーとなり、スウェーデン語からフランス語、ドイツ語、英語にも翻訳され、本書はこのうちの英語版にあたります。
全4巻のうち、第3巻すべてと、第4巻の前半が日本の記述にあてがわれています。第3巻序文では、日本は、ヨーロッパはもちろんのこと、世界の他のいかなる地域とも異なる特異な国であること、それらをできるだけ客観的に叙述することが述べられています。序文に続いては、英語の単語を見出し語とし、それに相当する日本語の単語をつけた「日本語語彙集」が掲載されています。
第3巻本文は、バタフィアから日本へ向かう航海に始まり、出島への到着時の様子や、通詞たちについて、出島の概略や、オランダ東インド会社による商業と中国商人による商業、長崎全般の概略など、主に長崎に関する記述が集中して見られます。
続いて、1776年3月からの江戸参府の記録が旅程に沿って述べられており、長崎から小倉、下関、兵庫、淀へと九州北部から瀬戸内沿いに進み、大坂に入って淀を経由して、都(京都)、大津へと抜け、桑名、大井川、富士、箱根、小田原を超えて、品川、江戸に着くまでの記録があります。江戸滞在は一ヶ月あまりでしたが、その間に多くの蘭学者たちの来訪があったことを訪問者の実名を挙げて述べており、特に中川淳庵については、オランダ語をよく話し、自然誌、鉱物学、動物学、植物学に関する知識があり、漢書や蘭書を集めていることなど詳しく説明しています。杉田玄白による『解体新書』直後でもあるこの時期は蘭学が非常に盛んだったこともあり、トゥンベリは、短い江戸滞在中の多くの蘭学者との交流によって日本の知識を豊富に得ることができました。トゥンベリと彼らとの交流は帰国後にまで続くものとなり、日欧の学問交流を開くことにもなりました。江戸滞在を終えてから出島に戻るまでの記録も詳細に報告されており、大坂では植木屋で多くの植物を購入したようで、その様子も描かれています。
江戸参府の記述に続いては、日本の概略が多方面から説明されます。自然産物や、人々の様子、価値観や道徳、言語、人名、衣服、建築物、調度品といった日本に関する様々な事項が、述べられています。トゥンベリは1775年9月から翌年10月までの天候と気温についても記録していたようで、第3巻237ページからはそれらが掲載されています。続く第4巻では、日本の軍備、武器、宗教、食品とそれらの調理方法、飲料、キセル、祭事とスポーツ、諸学問、統治機構と法、17世紀後半よりヨーロッパでも知られていた鍼灸、農業、自然誌、商業、というように、日本に関するあらゆる事項が整理して報告されており、読者が日本についての最新の知識を、多方面から得られるようになっています。また、第4巻には、日本の履物である草履、日本の女性と筆記具や算盤を描いた銅版画も収録されています。
トゥンベリは約1年半、日本に滞在した後、1776年末に日本を発ち1779年にスウェーデンに帰国、1781年から亡くなるまでウプサラ大学の医学、植物学教授を務め、学長にもなりました。なお、トゥンベリは、本書に先立って『日本植物誌(Flora Iaponica, 1784)』を刊行し、彼が最も力を入れた植物学研究の成果を発表しています。
(執筆:羽田孝之)
もっと詳しく見る