ライブラリー図書
日本回想録
解説
本書は、日本滞在歴19年を数え、約15年間もの長きにわたって出島商館長を務めた、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)が、帰国してから著したもので、彼の日本滞在期間にあった様々な出来事が記されています。ドゥーフは、ナポレオン戦争による母国の危機とオランダ東インド会社解散という、大変な苦難に満ちた時期の商館長を務め、オランダ船の来航が長期間途絶した出島を支えました。また、滞日中にドゥーフ・ハルマと呼ばれる、フランソワ・ハルマ(François Halma, 1653-1722)による蘭仏辞書を基礎とした蘭和辞書の作成でも知られ、歴代商館長の中でも日本との関係が特に深い人物です。
本書冒頭の序文では、ドゥーフが本書を刊行するに至った経緯が述べられています。彼は長期の日本滞在中に収集した多くの資料を帰国の際に持ち帰っており、それらを用いて研究を継続するつもりでしたが、不幸にも帰国船の海難事故のためそれらすべてが失われてしまったことが書かれています。また、本書刊行の契機として、オランダ苦難の時期になぜ出島を維持し得たのかをオランダ国民に知らせること、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)が、自身の研究(ドゥーフ・ハルマ)を用いながらそれを言明せずに、対訳辞書刊行を企てているという噂を耳にしたこと、をあげています。
本文は、全4部からなり、第1部は概論として、日本の歴史と統治機構、文化や習慣、そして宗教、キリスト教迫害の歴史が語られます。特に踏み絵について注意を促しており、ヨーロッパの他の国々からのオランダに対するいわれのない中傷(オランダ人はキリスト教に背いて踏み絵をすることで日本との関係を維持している)に反論を加えています。同様の趣旨でオランダ人ハーレン(Onno Zwier van Haren, 1713-1779)が1755年に刊行した『日本論』を引き合いに出しながら、誹謗中傷は、日本と唯一の通商を許されたオランダに対する嫉妬からくるものに過ぎないとしています。
第2部(57ページ)は、彼が来日した1799年から1817年までの彼が実際に遭遇した様々な出来事や事件が語られています。例えば、出島における日本との貿易の利益が、近年大きく下がっているという考えに対して反論する文脈で、出島で必要となる経費とその内訳(67ページ)などが記されています。特にハイライトとなる事件は、クルーゼンシュテルン(Ivan Fedorovich Kruzenshtern, 1770-1846)率いるレザーノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764-1807)を全権大使としたロシア船の来航(1804年)です。ドゥーフは来航以前からその情報を入手していたようで、そのことを幕府の役人に報告しています(86ページ)。レザーノフの交渉に際して、ドゥーフはロシアから協力を要請されていますが、助言を行いつつも、あくまで幕府との間で中立を保って対応したことが記されています。レザーノフの交渉が失敗したことに対して、オランダ人の妨害が原因との批判が後になされましたが、ドゥーフはこれを強く否定し、ロシア使節が日本に対して礼節を欠いた振る舞いを行なったことが原因であるとして、なぜ日本に来て日本の習慣と礼儀に従うことが自己卑下となるのか、と逆に批判しています。また、会談の様子を著作『世界周航記』で描いたラングスドルフ(Georg Heinrich von Langsdorff, 1774-1852)の記述の不正確さと、会談における無礼な態度を批判しています。ロシア人は、ゴロウニン(Vasily Mikhailovich Golovnin, 1776-1831)の著作『南千島探検始末記』で、日本が外国貿易を祖法により強固に禁止していることを事前に知り得たのだから、通商交渉に成功の見込みがなかったことは最初からわかっていたはずだ、とも述べています(108ページあたりまで)。
第3部(115ページ)は、江戸参府の様子が記されています。その準備や、費用、手順、乗り物(norimons, 120ページ)、行程などが詳細に描かれ、1776年の江戸参府を著作に記したツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)も引き合いに出しながら、自身の経験が語られています。江戸滞在中に、日本人が独力でラランデ(Joseph-Jérôme Lefrançais de Laland, 1732-1807)の天文学書を翻訳し、正確な天文学の知識を有していることに驚いたことや、高橋景保(TAKAHASI SAMPEI)との交流の様子も書かれています(143ページ)。また、日本人が「オランダ名」を欲しがることに応えて、彼らにオランダ名を与えたこと、彼がアブラハム(ABRAHAM)というオランダ名をつけた元弟子、馬場佐十郎(BABA SAZURO)との再会も記されています(146ページ)。
第4部は(153ページ)、オランダ船の来航が途絶する中で彼が対応した様々な出来事が記されており、特に1808年のフェートン号事件(161ページ)と、1813年のイギリスによる出島接収未遂事件(189ページ)については詳細に扱われています。フェートン号事件とは、当時オランダと敵対していたイギリス船フェートン号が、オランダ船の拿捕を企んで、偽のオランダ国旗を掲げて出島に来航、オランダ船と信じて出迎えたオランダ人を人質に取って水と食料を要求し、それらを受け取ってから出港した事件です。ドゥーフは人質救出のために通詞と対応に奔走しますが、その間の経緯が詳しく描かれています。この事件では、防衛体制不備の責任をとって長崎奉行が切腹していますが、フェートン号出港を確認して30分もしないうちに、彼は家族を守るために切腹したとドゥーフは記しています(174ページ)。もう一つの事件は、ジャワを占領したイギリスのラッフルズ(Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)の命を受けて、元商館長でドゥーフの上司でもあったワルデナール(Willem Wardenaar, 1765-1816)が、1813年に来航し、出島をイギリス支配下に置くことを要求した事件です。この事件で、ドゥーフは巧みな交渉術でワルデナールを追い詰め、逆にオランダ船来航途絶による欠乏を凌ぐ機会にすることに成功しており、その間の経緯が臨場感をもって描かれています。
その後、1817年に待望のオランダ船が来航、後任のブロムホフ(Jan Cock Blomhoff, 1779-1853)の到着をドゥーフは歓喜して迎えるとともに、ブロムホフが妻子を連れて来航したことを知り、彼らの滞在許可を得るべく長崎奉行と交渉しています(249ページ)。残念ながらこの願いは聞き入れられず、ドゥーフは彼らとともに1817年12月に帰国の途につきました。255ページからは、帰国の旅路、続く付録(263ページ)は、序文でも述べていた自身が作成した日蘭辞書についてとシーボルトに対する批判が記されています。
(執筆:羽田孝之)
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