ライブラリー図書
ベニョフスキー航海記
解説
著者のベニョフスキー(Maurice Benyowsky, 1746-1786)は、ハンガリー出身の軍人で、ロシアとの戦争で捕虜となり、カムチャッカに流刑になった後、仲間とともに反乱を起こし軍艦を奪ってそのまま逃走、日本への寄港を企てるも上陸を果たせず、台湾を経由してマカオまで航海を続けました。その後、ヨーロッパに戻ってからマダガスカルに再び転じ、現地で戦死しています。
本書は、ベニョフスキーが自身の伝記として出版を目論んでいたフランス語草稿を英訳して1790年に刊行されたもので、その虚実綯い交ぜとなったスリリングな筆致により、ヨーロッパにおいてベストセラーとなりました。その内容には誇張や脚色が多分にあり、学問的厳密性には乏しいとは言われるものの、読み物としての面白さは格別だったようで、各国語に翻訳されるだけでなく、本書をモチーフにした戯曲が発表されるなど、さながらベニョフスキー・ブームとも呼べる反響を呼び、20世紀に入るまで読み継がれています。
日本との関係で本書が興味深いのは、彼が立ち寄った四国の日和佐と奄美大島でオランダ商館長に宛てて出した書簡が、オランダ語への翻訳と、そこからさらに日本語に翻訳される過程において、ロシアが日本北方の侵略を企てている、ということを強く警告した内容であるかのように伝わり、ロシア南進の脅威に対する日本の警戒を引き起こしたことです。ベニョフスキーの名前はオランダ語に訳す際の間違いにより、ファン・ベンゴロとなり、そこから訛って「ハンペンゴロウ」として日本に伝わっていますが、オランダ商館、ないしはその関係者周辺からその話を聞いたと思われる林子平は、ロシアの脅威とそれに対する幕府の無策を批判する『海国兵談』を著し、幕末に続く海防政策の基礎を成しました。
本書における日本関係の記述は、第1巻第35章における千島列島の記述、続く第36章における北海道の記述に始まり、四国、並びに奄美大島に接近した際の記録が、369ページから第1巻の終わり(422ページ)まで続いています。また、第2巻冒頭でも奄美大島からマカオに出発するまでの記述があります。彼の描く日本でのやりとりは、大変臨場感のあるもので、言葉が全く通じない中でなんとか交渉を企てようとする様子や、当地の気候、人々の様子や態度などが緊迫感を持って伝えられています。脚色も多いとされる本書にあって、日本に関する記述については、一部事実に沿わない点もあるものの、比較的正確に描かれていると言われており、日本側の史料やオランダ商館長による記録と照合しても、多くの点が事実であることが、現在では明らかにされています。
(執筆:羽田孝之)
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