ライブラリー図書
バタヴィア学芸協会論叢 第1巻から第3巻
解説
本書は、「バタヴィア学芸協会(Bataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschappen)」が、刊行した学術雑誌の創刊号から第3号までにあたるものです。オランダ東インド会社は、バタヴィア(現在のジャカルタ)にあるバタヴィア政庁がその中心機能を担っていました。バタヴィア学芸協会は、東インド植民地や交易地の学術研究を推進することで、会社利益増大に貢献することを目的にバタヴィア政庁が支援して1778年に設立されました。バタヴィア学芸協会がその研究成果発表の媒体として、現地で刊行を開始したのが本書で、1779年に創刊されています。刊行に尽力した人物の一人がホーゲンドルプ(Willem van Hogendorp, 1735-1784)で、彼自身が多くの論文を寄せています。
巻頭には、バタヴィア学芸協会の会長で、オランダ東インド会社特任理事でもあったラーデマーヘル(Jacob Cornelis Mattheus Radermacher, 1731-1781)よる序文が寄せられています。理事会員を構成するメンバーと会の規則、目的が述べられており、主たる研究分野として、農業、漁業、工業、薬学、文学が挙げられています。創立時の会員名が一人一人列挙されており、当時の錚々たる学者たちの名前が掲載されています。また、東インド会社が統治、関連する各地域の関係者も会員に名を連ねており、赴任地名と共にその名が列挙されています。その中には、日本も含まれており、当時の出島商館長フェイト(Arend Willem Feith, 1745-1782)や、次期商館長として来日したばかりのティツィング(Isaac Titsing, 1745-1812)の名が確認できます(68ページ)。70ページには地域別の会員数と総数が掲載されており、ここから当時の東インド会社の勢力地域と力点を読み取ることも可能です。会員数は192名となっています。
最初に掲載される論文は、ホーゲンドルプとラーデマーヘルによるもので、オランダ東インド会社が統治、関与する各地域の概況が説明される内容です。日本は、1641年以降、出島においてオランダ人が貿易を行っていることや、彼らを除く他のあらゆるヨーロッパ人が排除されていることが述べられています。また、長崎の位置を東経148度(当時採用されていたフェロー子午線が基準となっているため、現在の基準から18度ほどずれる)北緯33度として説明しており、極めて正確に位置を把握していたことが分かります。彼らの論文に続いて、第1巻には12本の論文が寄せられており、大変充実した内容になっています。
第2巻は、翌1780年に刊行されており、こちらにも多くの論文が寄せられていますが、日本について興味深いのは、各地についての気象観測についての報告で、1778年から1779年にかけての日本(長崎)で観測された気象データが後半の受賞報告の部(本文は512ページまでで、それ以降はページ付が新たになされています)84ページから87ページかけて掲載されています。
第3巻では、ラーデマーへルによる日本についての論文が203ページから掲載されています。ラーデマーヘルは、先行する多くの日本研究を列挙しながら、出島で商館長を務めていたティツィングの知見を随所に用いながら論を展開しています。日本についての記述は三部構成になっており、最初(209ページから)に取り上げられるのは、日本の通貨、貨幣についてです。続いて(229ページから)、日本酒と醤油の醸造方法が扱われ、これはティツィング自身の論考として掲載されており、ティツィングが生前に発表した唯一の作品です。最後(247ページから)には、日本語と低地ドイツ語(オランダ語)との比較語彙集が掲載されています。
この雑誌は、以降も長く刊行が続けられ、後にはシーボルトの様々な論考が掲載されたことでも知られています。また、江戸時代の日本への舶来書物にも含まれており、蘭学者たちの間でも読まれていたようです。日文研はこの最初の3巻だけでなく、日本についての論考が掲載される1857年までに出された多くの巻を他にも所蔵しています。
(執筆:羽田孝之)
もっと詳しく見る