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伊達政宗遣欧使節記
解説
伊達政宗遣欧使節、すなわち慶長遣欧使節は、スペイン領ヌエバ・エスパーニャ(Nueva España, 現在のメキシコ)との通商関係樹立を目指した伊達政宗により、企図された外交使節団でした。伊達政宗と関係が深かったフランシスコ会士ルイス・ソテーロ(Luis Sotelo, 1574~1624)主導のもと、支倉六右衛門常長(1571~1622)が伊達藩名代に就いた慶長使節団一行は、ヌエバ・エスパーニャをはじめ、スペイン・イタリアを歴訪し、各地で外交交渉を展開しています。
本書『伊達政宗遣欧使節記』は、慶長遣欧使節一行に通訳兼折衝役としてマドリッドからローマまで同行したイタリア人シピオーネ・アマーティ(Scipione Amati, 1583~?)の著作です。アマーティはローマ近郊のトヴィリヤーノ(Trivigliano)出身で、法学、修辞学、歴史学、良心例学(道徳哲学)等を修めた人文主義者でした。慶長使節邂逅後には、小都市パレストリーナの司教総代理や教皇庁主席書記官といった地位に就いており、いわゆる高位聖職者でもありました。アマーティの活動領域は、主にローマの一大貴族コロンナ家の領内が中心で、それを裏付けるかのように、コロンナ文書館にはアマーティがコロンナ家関係者に宛てた書簡が100通以上収蔵されています。
『伊達政宗遣欧使節記』はオクターヴォ版(縦21.5cm×横15.5cm)で、1615年にローマのジャコモ・マスカルディから出版されており、扉一枚、教皇パウルス5世への献辞6枚、読者への辞7枚、目次1枚、本文76ページ、全31章から構成されています。1章から15章では伊達政宗の人物像や奥州国の地誌、ソテーロの奥州国における活動、ソテーロの活躍により慶長遣欧使節がヨーロッパに派遣されるに至った経緯等が取り上げられています。16章から最終章では、使節が石巻を出帆しアカプルコへ到着後、マドリッドでのフェリペ3世謁見を経て、ローマに至り、教皇パウルス5世謁見、ローマ入市式の挙行について述べられ、最後にボルゲーゼ枢機卿が、使節一行のローマの滞在先に訪問するところで締めくくられています。とりわけ、アマーティが使節に同行するに至った経緯については、自身のこととして本書中二か所で以下のように語られています。
「マドリッドのメディナ・デル・リオセコ公兼モディカ伯夫人ヴィットーリア・コロンナ・デ・カブレラ(Vittoria Colonna de Cabrera, 1558~1633)の邸宅においてタキトゥスに関する政治論文の執筆を進めていたところ、使節に通訳兼折衝役として仕える機会を得た。」(読者への辞)
「マドリード滞在中に教皇大使カエターニ卿、及びメディナ・デル・リオセコ公兼モディカ伯夫人ヴィットーリア・コロンナの要請で使節通訳兼折衝役に就任した。」(47ページ)
この2つの記述からは、慶長遣欧使節との邂逅時、31歳であったアマーティが既にコロンナ家と深い関わり合いを持ち、教皇大使からも通訳兼折衝役としての力量が認められていたことが見て取れます。
当該著作については、奥州と伊達政宗について論じられている前半部は、その具体性からソテーロからの伝聞の可能性が高いのですが、アマーティが使節一行とマドリッドで邂逅して以後の記述にあたる後半部は、アマーティの実体験に基づく記述と考えられています。
(執筆:小川仁)
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