学習室エッセイ

チヴィタヴェッキアに架かる日伊交流の架け橋

著者
小川仁
掲載年月日
2019-11-13

ローマから西に61㎞という地の利を活かし、ローマの外港として繁栄してきた港町チヴィタヴェッキア。現在は地中海を行き交う大型クルーズ船の寄港地となっており、一時下船したクルーズ客たちは、観光のためにチヴィタヴェッキアから一路ローマへと発って行きます。

さて皆さんは、この港町の中心部に慶長遣欧使節の日本人代表であった支倉常長の像が建っているのを存知でしょうか。今を遡ること404年前の1615年10月18日、ガレー船(櫂船)でジェノヴァを発った慶長遣欧使節団もまたチヴィタヴェッキアに上陸し、ここから陸路でローマへと向い、その後教皇パウルス5世との謁見を果たしたのでした。

慶長遣欧使節の通訳兼折衝役を務めたイタリア人シピオーネ・アマーティは、自著『伊達政宗遣欧使節記』において、使節団のチヴィタヴェッキア入港時に、礼砲でもって歓迎されたなど、この時の様子を詳細に描いています(該当箇所54~56ページ)。このような経緯から日伊交流を記念して1991年に建てられたのが支倉常長像なのです。

チヴィタヴェッキアと日本との結びつきは、慶長遣欧使節のエピソードに留まりません。1597年2月に長崎で処刑された26人のキリシタン(フランシスコ会宣教師6人含む)たちが、1862年に聖人として列聖されました。そのことに因んで、1872年にはチヴィタヴェッキアに、フランシスコ会修道院に付随する日本聖殉教者教会が建立されています。これらの施設は、建設されるにあたり8年以上の歳月が費やされたものの、内部に描かれた二十六聖人の壁画は、日本人と接したことのない現地の職人により制作されたため、その風体や服装は日本人とは似ても似つかぬものだったようです。

この教会は、第二次世界大戦中、連合軍の空襲により破壊されたものの、1948年に再建を果たしています。しかしながら日本人による日本的な内装を希望していたスカルペリー神父により、日本画家の長谷川路可(1895~1967年)が内装制作責任者として招聘され、1951年から6年の年月を経て、壁画等の内装が一新されました。広い教会内には、後陣の二十六聖人殉教図をはじめ、後陣天井にはフランシスコ・ザビエル像や、極めて珍しい和服姿の聖母子像、聖壇左側には支倉常長などが描かれており、キリスト教を通したヨーロッパと日本との交流の歴史が一目でわかるように構成されています。

チヴィタヴェッキアはローマから普通電車で1時間程度。ローマを訪れた折には、チヴィタヴェッキアにも足を延ばして、日本とイタリアの交流の歴史に触れてみるのもいいかもしれません。