学習室エッセイ

慶長遣欧使節の足跡を歩く ~ローマ編(2)~

著者
小川仁
掲載年月日
2020-04-01

「慶長遣欧使節の足跡を歩く~ローマ編(1)~」では、バチカンのアンジェリカ門をくぐり、巡行し始めた慶長遣欧使節一行が、ローマ市内のどのような道をたどったのか、現在の様子も織り交ぜてお伝えしました。今回は彼らの出で立ち、パレードの隊列はどのようなものだったのかをお伝えしていきます。

使節一行の折衝役として同行したイタリア人シピオーネ・アマーティは、『伊達政宗遣欧使節記』(イタリア語、1615年、ローマ)の第28章「大使の方々はいかにしてローマへの壮麗な入市式を行ったか」のなかで、この時の彼らの様子を以下のように詳細に記しています。いくつかの項目に分けて見ていきましょう。

アマーティは当時の沿道の様子を次のように語っています。

「サン・ピエトロ広場、、ボルゴ地区、サンタンジェロ城、ポンテ地区(あるいはサンタンジェロ橋)、パリオーネ地区、ヴァッレ地区、チェザリーニやアルティエーリ、カンピドーリオといった、とりわけて広い場所は、既に無数の人で溢れかえり、豪華な馬車から普通の馬車まで数えきれないほどにひしめき合っていた。絢爛豪華なタペストリーやクッション、高級な織物で飾られた窓辺には、ローマの貴婦人や奥方、その他の婦人たちが佇んでいたのだが、それだけでも実に見栄えのするものであった。」1

この記述だけ取ってみても、普段接することの無い、非常に珍しい日本人の姿を一目見ようとして広場にひしめき合うローマっ子のかしましさ、そして使節一行が通る沿道を綺麗な織物で彩ることで、一行を歓迎しようとした彼らの心意気が伝わってきます。

では、慶長遣欧使節一行とパレードの隊列の様子をアマーティはどう記録しているのでしょうか。次の引用をみていきましょう。

「前方で待機する軽騎兵親衛隊の喇叭の音が響き渡ると、軽騎兵総員50名が閲兵を受けるべくそそくさと整列した。一団は隊長のマリオ・チェンチ殿とクルチョ・カッファレッリ殿に率いられ、彼らの後には枢機卿閣下の家人たちや、[各国]の大使殿が大勢の侍従たちとともに騎馬で進み、さらにはその他のローマやフランス、スペインの貴族たちが豪華な衣装を身に纏って二人一組になって続いた。次いで14人のローマ市区長に配属されている太鼓手たちが続き、さらに彼らの後には、馬に乗った5人の喇叭手が等間隔でやっきた。彼らは度々にぎにぎしく、そして陽気に喇叭を吹くものだから、群衆の気分も盛り上がった。さらに後には、馬に乗り、眩いばかりに美化礼装した大勢のお歴々、令名高き諸卿、騎士たちが続いた。そしてその次に、一人ずつ二人のローマ貴族にはさまれて、大使の随員の面々が白い馬に乗って歩みを進めていく。そのうち最初の7人は近侍と小姓たちで、常時身に着ける武器として太刀(Spada)と短刀(Pugnale)を携えていた。これらはそれぞれ刀(Catane)、脇差(Bachisaxi)と呼ばれている。~中略~ これらの人たちの後ろから、同じ並び方で四人の誉れ高い日本の武士がやって来た。そのうちの一人は上述の者たち同様の立派な身なりをしており、残りの三人は黒ずくめで下には足元まであるスカート(袴)をはき、その上には膝まである黒い絹製の衣服(羽織)を着て、頭には坊主(Bonzi)たちがよくかぶっている、両縁が立ち上がっている袋状の黒いホルムズ織りの帽子をかぶっていた。」

アマーティの記述を通して、パレードの隊列の具体的な記述を見ていきますと、当時のローマの有力者や高官が多数参加することで使節の威厳を際立たせ、度々喇叭を奏でることで、周囲の雰囲気や群衆の一体感を盛り上げようとしていた様子が見て取れます。また隊列の順番も分かりやすく記されていることから、使節一行がこのパレードの主役であったことがはっきりと伝わってきますし、使節の日本人随行員の身に着けていた衣服も、可能な限り克明に描かれているのがわかります。(つづく)

注1.引用箇所は、シピオーネ・アマーティ著『伊達政宗遣欧使節記』、5961ページ。なお上記翻訳は、『仙台市史』8081ページに掲載されている日本語訳を参照しつつ、適宜拙訳を加えている。