学習室エッセイ

慶長遣欧使節の足跡を歩く ~ローマ編(3)~

著者
小川仁
掲載年月日
2020-04-08

「慶長遣欧使節の足跡を歩く ~ローマ編(2)~」では、アマーティが著した『伊達政宗遣欧使節記』の記述を追いながら、慶長使節一行のローマ入市式の様子、とりわけパレードを見物するローマっ子の騒がしさ、市内を練り歩くパレードの賑やかさ、そして日本人随行員の服装などを見てきました。今回はパレードの主役である支倉常長の服装や立居振舞を、前回と同じくアマーティの記述を追いながら覗いてみましょう。

アマーティは支倉常長について下記のような詳細な記録を残しています。

頬杖をつく支倉常長(小川撮影)
頬杖をつく支倉常長(小川撮影)

「その後ろから二組の従僕が来た。彼らは全員、そろいの服装をしていて、その衣服に合わせて黄色と緑を細かな碁盤目状にした絹製のゆったりした上っ張りを着ていた。一方は薙刀(Anghinata)、他方は傘を携えていた。~中略~ そして教皇の甥、マルカントニーオ・ヴィットーリオ閣下の右手に、ドン・フェリーぺ・フランシスコ・ファシェクラ(Don Filippo Francesco Faxecura: 支倉)大使その人が現れ、その両側を教皇聖下のスイス衛兵とその馬丁が進んだ。大使殿はインド製の豪華極まりない衣服を身にまとっていたが、その服は多くの部分に区画され、動物や小鳥や花の姿が絹や金銀で縫い取りされていて、それが白地に良く映えていた。大使殿は襞襟のカラーをつけ、ローマ風の帽子をかぶっていた。そうした彼は喜びに満ちた表情で挨拶をしていたのだが、尊敬を示すしぐさで彼に敬意を表する群衆と何度も挨拶を交わし、彼の随員たちも同じように挨 拶をした。」1

槍斧を持ち、守衛所に立つスイス衛兵(小川撮影)
槍斧を持ち、守衛所に立つスイス衛兵(小川撮影)

支倉常長の衣装や振る舞いについての記述は、彼が慶長遣欧使節の主役であることを物語るかのように、衣装の細かなデザインまで極めて詳細に綴られており、さらには「ここが一番の晴れ舞台」とばかりに嬉々とした表情で群衆と挨拶を交わす支倉常長の姿が浮き彫りにされています。

また、話しは少し逸れますが、アマーティの記述に「教皇聖下のスイス衛兵」という文言があります。スイス衛兵は16世紀にバチカンを警護する役を担うようになって以降、現在でもバチカンの要所を守り続けている、いわば「バチカンの番人」のような存在です。1527年に起きたローマ劫略事件の際には、多数の死者を出しながらも教皇を守り抜いたため、スイス衛兵に寄せられる信頼は絶対的です。支倉常長らもそうしたスイス衛兵に護衛されていたということになります。アマーティは支倉常長についての説明を他の日本人随行員よりも詳細に記しているわけですが、そこに当時のローマっ子であれば周知の存在であったバチカン直属のエリート集団「スイス衛兵」というキーワードを差し込むことで、慶長使節がバチカンにも認められた正当な使節団であることを、効果的に読者に伝えようとしていたことが見て取れます。

以上のような引用、つまりアマーティの詳細な記述を読み進めていきますと、慶長遣欧使節一行の威風堂々たる姿、支倉常長の晴れやかな表情、喇叭手や太鼓手によるリズミカルな演奏、沿道にひしめくイタリア人たちの熱気を帯びた歓声、そして彼らの使節一行に向けられる好奇の眼差しが、手に取るようにわかるかと思います。

慶長遣欧使節のローマ入市式について、もう少し詳しく知りたい方は、『仙台市史 特別編8慶長遣欧使節』に掲載されている『伊達政宗遣欧使節記』の日本語訳も是非ご一読ください。(つづく)

注1.引用箇所は、シピオーネ・アマーティ著『伊達政宗遣欧使節記』、5961ページ。なお上記翻訳は、『仙台市史』8081ページに掲載されている日本語訳を参照しつつ、適宜拙訳を加えている。