学習室エッセイ
慶長遣欧使節の足跡を歩く ~ローマ編(4)~
- 著者
- 小川仁
- 掲載年月日
- 2020-05-20
「慶長遣欧使節の足跡を歩く~ローマ編~」では前回、前々回と、使節一行のローマ入市式での立居振る舞い、支倉常長らの様子、それを取り巻くローマっ子の喧騒をアマーティの記述を通して確認しました。アマーティが『伊達政宗遣欧使節記』のなかで、入市式の様子をとても詳細に、そしてわかりやすく読者に伝えようとしていたことが、お分かり頂けたかと思います。
では、彼らの巡行ルートに話を戻しましょう。前回も書きましたように、使節一行は今でも当時の佇まいを残すゴヴェルノ・ヴェッキオ通りを経て、現在のローマの人気観光スポット、ナヴォーナ広場のすぐ脇をかすめる様に進んでいったと考えられています。ナヴォーナ広場は、ローマ帝国時代にドミティアヌス陸上競技場のフィールド部分があった場所で、楕円状の広場の形が陸上競技場だった往時の様子を偲ばせています。現在のナヴォーナ広場では、クリスマスシーズンに大規模なクリスマスマーケットが開かれたりと、四季を問わず多くの人々が行き交う場所となっています。
次いで一行は、現在のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世大通りの一部(この通りは19世紀末に整備されており、入市式当時は市中の小道の一つでした。それにしても舌を噛んでしまいそうな名前ですね…)を巡行、当時建設途上であったサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会や、現在は残っていないサンタ・二コラ・デーイ・チェザリーニ教会の横を通過していったようです。
話は少し逸れますが、サンタ・ニコラ・デーイ・チェザリーニ教会は現存しておりません。それには、ちょっとした理由があります。慶長遣欧使節がローマを訪れる100年前に、教会周辺にはアルジェンティーナ(フランスのストラスブールの古称)出身の聖職者が建てた屋敷と塔があり、それに因んで一帯はアルジェンティーナと呼ばれていました(現在ではアルジェンティーナ塔広場と言われています)。教会を含めたアルジェンティーナ一帯は、1926年から区画整理のための工事が進められていたのですが、その際に共和制ローマから帝政ローマ時代にかけて建てられた神殿やポンペイウス劇場の一部が次々と発掘されました。ほどなくして発掘された遺跡が考古学的にとても重要であることが判明し、遺跡の調査・保存が優先された結果、教会は解体され、現在その全容を目にすることが出来ない状況に至っているのです。ちなみにポンペイウス劇場は、ユリウス・カエサルが暗殺された場所で有名なのですが、2012年にスペインの考古学研究チームの調査により、ユリウス・カエサルが暗殺された正確な場所が特定されています。
これは良く知られていることなのですが、ローマという都市は、廃墟の上に新しい建物が建てられ、その建物が廃墟化すると、その上にまた新しい建物が建てられるといった、いわば「スクラップアンドビルド」の連続の下に発展を遂げてきました。慶長使節団は当人たちの及びもつかないところで、ローマ時代の遺跡の上を意気揚々と練り歩いたのかと思うと、そこはかとなく可笑しみが湧いてきます。(つづく)