学習室エッセイ
イエズス会士が見た祇園祭
- 著者
- 小川仁
- 掲載年月日
- 2020-07-01
イエズス会士たちは書簡を通して、日本人の習慣や風俗、祭事などを事細かに伝えています。イエズス会士ガスパール・ヴィレラの書簡もその例外ではありません。ヴィレラは、1562年8月17日に堺からイエズス会士らに宛てた書簡の中で、祇園祭を非常に詳しく伝えています。ここでは、『東インド史』(マッフェイ著、1589年、イタリア語、日文研収蔵)に所収されている当該書簡のイタリア語訳を取り上げ、ヴィレラが眼差した祇園祭をご紹介したいと思います。ヴィレラは、一体どのように祇園祭を伝えているのでしょうか?
****************以下翻訳*****************
「この国の迷信と供儀について、いくつか触れておかねばならないことがございます。と申しますのも、この国の人々には無知蒙昧が見受けられるのでして、それは貴方たち[イエズス会士たち]が彼ら[日本人]のために、何度も何度も主に祈りを捧げてしまうかもしれないほどなのです。
8月の初旬は、そんな彼らによって一つの祭りが執り行われます。この祝祭は、「ある人間」に捧げられるもののようで、その「人間」の名を取ってギボン [祇園]と呼ばれております。祝祭は以下のような手順で挙行されます。町の各地区や職人組合には、外へ出るときに一緒に持って行かなければならない、祭りのために作り出された様々な物が配られます。祭り当日になりますと、人々は外へ出て行列を作ります。それぞれの行列前方には、大変高価な絹織物に覆われた車両[山車]が控えており、その数は15台ないし20台にのぼります。これらの車両の上には、唄ったり、太鼓を叩いたり、小笛を吹いたりする少年たちが多く乗り込んでいます。どの車両も30人ないし40人の人たちに曳かれているのですが、その後ろには、この車両を所有している職人たちが付き従います。次いで続々とやって来る車両の上には、武装したり、絹織物を身に纏ったり、貴族風に様々に着飾った人々が乗り込んでおります。このような手順で以て行列は、偶像が祀られる寺院を参詣すべく歩みを進め、その寺院で祭礼に臨みます。当日の午前中はこのような流れで過ぎていきます。
引き続いては、夕方に2つの輿と、彼らが祀る偶像の輿が外に持ちだされます。一つ目の輿は偶像の輿であり、それを担ぐ人々は以下のような仕草をします。つまり、輿の中に座っている偶像が重すぎて、担ぎ上げることができないかのような振りをして見せるのです。二つ目にやって来る輿は、偶像の妾のものであると言われており、これらに続き少し間を置いて、三つ目にあたる偶像の正妻の輿がやって来ます。
[そして、偶像、妾、正妻の輿のあいだで、以下のようなことが繰り広げられます] 。夫[偶像]が彼女[正妻]に、愛妾とともにやって来ると伝えると、正妻の輿の担ぎ手たちが、間髪入れずに狂ったかのように右往左往走り回るのです。このようにして彼らは、正妻の嫉妬や不安を表現しております。ここで人々は、大袈裟な身振り手振りで苦痛に悶え、悲しみに打ちひしがれ、多くの者が号泣するかと思えば、女神[正妻]を慰めるべく跪き、嘆願するかのように[偶像あるいは女神を]崇め奉ります。最終的に3つの輿は、互いに寄り添いながら寺院へと戻り、このような経緯を以て祭りは終わりを告げます。」
[ ] は翻訳者による補足。
ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei)『東インド史』1589年Le historie delle Indie orientali, ff. 333r~336v. [DS/411/Ma] (000874669)