学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす③

著者
呉座勇一
掲載年月日
2022-11-24

日本側史料から見た天皇・将軍

戦国時代の日本では「王」「国王」と言えば、基本的には天皇を指していた。一例を挙げよう。明応9年(1500)、後土御門天皇が59歳(数え年)で亡くなった。室町時代には衰退した朝廷を支えるべく幕府が経済的援助を行ったが、応仁の乱で幕府が弱体化すると、それも困難になった。幕府は後土御門天皇の葬儀費用もなかなか負担しようとせず、葬儀が執り行われたのは崩御から40日以上たってからだった。
とはいえ、後土御門天皇が死去した以上、新天皇は不可欠である。後土御門天皇の第1皇子が後を継いだが(後柏原天皇)、即位式の金がない。例によって幕府に援助を申請したが、財政難の幕府は援助を渋った。
文亀2年(1502)になっても即位式実施の見通しは立たなかった。それどころか幕府の最大の実力者である細川政元は以下のように語ったという。「即位式など無駄である。即位式を行ったところで実質が伴わなければ『王』とはみなされない。現状のままでも私は(後柏原天皇を)『国王』と思っている。だから大金を投じて大がかりな儀式を行う必要はない」と(『大乗院寺社雑事記』)。
では将軍はどう認識されていたのだろうか。戦国時代ではなく、室町時代の史料だが、室町幕府の政治顧問を務めた醍醐寺僧、満済の日記『満済准后日記』を見てみよう。永享6年(1434)6月、満済は、遣明使(中国の明帝国に派遣する外交使節)が持参する国書で、室町幕府6代将軍足利義教がどう名乗るべきかについて相談を受けた。つまり義教がどのような肩書を用いるか、通交名義をどうするかという諮問である。問題の核心は、3代将軍足利義満の前例に従えば、「日本国王」と名乗るべきだが、天皇を差し置いて将軍が「王」を名乗っていいのか、「日本国主」などという名義にすべきなのか、という点にあった。
満済は、将軍は政治の実権を握っている「覇王」であるから、「王」の字を使うことは問題ない、と答えている。天皇は最高の「王」「国王」であるが、唯一絶対ではなく、将軍は天皇に代わって対外的に日本を代表し得る「国王」であった。このように、日本側史料から浮かび上がる天皇と将軍の関係は、ルイス・フロイスの天皇・将軍観と基本的に合致するのである。