学習室エッセイ

イタリア文書館探訪 コロンナ文書館(4)

著者
小川仁
掲載年月日
2021-01-20

「イタリア文書館探訪コロンナ文書館編」も今回で4回目。前回は、コロンナ文書館に収蔵されている史料の概要に触れたうえで、天正遣欧使節関連史料について詳しく述べました。枢機卿のアスカニオ・コロンナが日本に関心を持ち、彼らの動向を絶えず追っていたことをみてきました。今回も引き続き天正遣欧使節関連史料を見ていきますが、少し変わった史料に触れてみたいと思います。

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天正遣欧使節がローマ入りしたのは1585322日。63日にローマを去るまでのあいだ、彼らはローマ市内の入市式パレドを始め、数々のイベントや式典に臨んでいます。彼らのローマ滞在時、ヴァチカンでは、410日に教皇グレゴリウス13世が死去、425日のコンクラーベ(教皇選挙)を経て、51日に新教皇シクストゥス5世が就任するという、一大政治ショーが展開されていました。天正の四少年たちは、日本では決して目にすることができないカトリック世界の政権交代を間近で目撃するとともに、短期間のうちに新旧二人の教皇に謁見するとういう、極めて稀有な体験をしたのでした。そうした中で、新しく教皇に就いたシクストゥス5世は四少年たちに、一つの「証書」(言い方は雑ですが)を下賜しています。それこそが、今回紹介するコロンナ文書館収蔵日本関連史料の「天正遣欧使節に認可されし贖宥状写し」(原文イタリア語)です。贖宥状とは免罪符ともいいますが、どのようなものなのでしょうか。カトリック世界では、人は少しずつ罪を重ねながら生きており、死後に煉獄において、その累積した罪を償わなければならないと考えられていました。そうした罪を軽減する様々な方法や手段が記されているのが贖宥状です。では、教皇シクストゥス5世が天正遣欧使節に授けた贖宥状には、一体どのようなことが書かれていたのでしょうか。12項目からなる当該贖宥状から数項ほど以下に抜粋します。

5.月に一回、故人のためにミサを挙げし者、及びミサで日本の改宗のため祈祷せし者は、煉獄の魂を清められよう。

7.異教の何人の改宗にも手を差し伸べ、彼ら(日本の紳士たち)が彼らの義務(もしくは与えられし恩寵)に従い生きている改宗されし地区に手を貸す者、あるいは秘蹟とともに(祈願)せし者は、その度に贖宥200年を得られよう。

8.降臨節及び四旬節の間、幾つかの聖地、他の場所、あるいはこれらグラーニ(数珠)の一つがある慈悲深い地ならどこでも、赴くに際し、主祷文(パーテル・ノステル)、他の聖歌、天使祝詞(アヴェ・マリア)を15回唱え挙げ、同時に今後週に一回、異教の民の改宗のため主を祈祷すれば、ローマの7つの教会を訪れた際に得られる贖宥を、全てにして十全たる状態で成し遂げられよう。

9.まず告解、すなわちイエス臨終の節を合唱、もしくは口にしつつ悔悟せし者、全贖宥をえられよう。ついで期せずして善き臨終に手を差し伸べたる者、贖宥1000年を得られよう。まず告解、悔悟しつつ、イエス臨終の節を合唱もしくは口にせし者、全贖宥をえられよう。ついで期せずして善き臨終に手を差し伸べたる者、贖宥1000年を得られよう。

以上、当該贖宥状で特徴的な4つの項目を挙げてみました。まずは祈りを捧げることが罪を贖うことの基本とされていることがわかります。次いで、「日本の改宗のために祈祷せし者」、「異教の何人もの改宗にも手を差し伸べ」や「異教の民の改宗」など、カトリックによる日本での宣教活動を示唆する文言も、この贖宥状の際立つ特徴と言えますし、各項目に記載されている贖宥の年数においては、カトリック世界における罪の深さが、どの程度なのか感じ取ることができるかと思います。日本への遠い旅路へと就く、キリシタンの四少年たちを最大限勇気づけるため、教皇シクストゥス5世は、この贖宥状を彼らに授けたのかもしれません。教皇シクストゥス5世が、天正少年使節にこの贖宥状を授けた正確な日時は不明で、その収蔵経緯も明らかではありません。しかしながら、シクストゥス5世の教皇就任が51日、天正少年使節がローマを発ったのが61日であったことから、この一ヶ月のあいだに手交されたものと推測することができます。さらに天正四少年に楽器を贈った、アスカニオ・コロンナについて前回触れましたが、ヴァチカンの様々な要職を歴任していた彼にとって、この贖宥状「写し」の入手は難しいものではなかったと考えられています。