学習室エッセイ

イタリア文書館探訪 コロンナ文書館(5)

著者
小川仁
掲載年月日
2021-06-09

今回で5回目となる「イタリア文書館探訪 コロンナ文書館編」。前回は、「天正遣欧使節に認可されし贖宥状写し」(原文イタリア語、コロンナ文書館蔵)という、少し変わった史料を紹介しました。今回も前回に続き、コロンナ文書館の珍品史料をご紹介致します。

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 今回紹介する珍品史料とは、それはズバリ、和紙(と思われる)紙に書かれた書簡(イタリア語)です。この和紙書簡の発見時、筆者は「他の書簡とはサイズの異なる書簡だなぁ」程度に認識し、直ぐに片づけようとしていました。しかし、これを傍目で見ていたコロンナ文書館付の老修道士が、嗄れ声で一言。「こ、こ、これは、わ、わ、わ、わしなのではないか…?」(原文イタリア語)この一言がきっかけで、世にも珍しい史料の発見へと繋がりました。

1615年12月5日にローマで記されたこの書簡の筆者は、シピオーネ・アマーティ(1583~?)です。アマーティは、慶長遣欧使節のヨーロッパ歴訪時、マドリッドからローマまで半年間弱(1615年8月~1616年1月)のあいだ、使節の通訳兼折衝役として同行した人物で、その時の体験を基に、『伊達政宗遣欧使節記』(イタリア語、1615年)をローマで出版しています。そしてこの書簡の宛先は、当時のコロンナ家当主、フィリッポ・コロンナ1世(1578~1639)です。書簡受取り時、フィリッポ1世は、コロンナ家の本拠地パリアーノで政務に勤しんでいました。

アマーティは聖職者であった一方、コロンナ家において、他の貴族や都市と利害調整をする仲介役も担っており、そうしたアマーティとコロンナ家との遣り取りを示す書簡数十通が、コロンナ文書館には収蔵されています。

さて、この和紙書簡の内容は、一体どのようなものだったのでしょうか。下記に全訳を掲載します。

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尊敬おくあたわざる庇護者にして、いとも令名高くも秀麗なる閣下

司祭長グイドーネ・フェッランティ師逝去に際し、トリヴィリャーノ司祭長の座が空位となっているにおよび、我が父〔上長、我が主、キリスト?〕が私に我が一族のもとへの帰参し生涯を全うするよう望んでおります。願わくは、閣下におかれましては、覚えめでたくも上述の司祭長就任の推薦状〔Presentata〕を認めて頂きたく、ならびにその推薦状をファントーネ様宛の封筒に同封し、こちらローマへ送付して頂きたく存じ上げております。重ねて閣下が、幾人かの司祭に、偶さかにも恩恵を施され、即ちトリヴィリャーノの聖職禄という恩寵を授けし折、正に御家の庇護、比類なきほどに、当該教会の空位となっている聖職禄にあって、閣下のご期待に添えるよう、私もその推挙の名誉に浴したく、お願い申し上げている次第に存じあげます。上記の旨、閣下に請願すべく代理の者が〔閣下の下に〕参ります。〔私もそうしたいのでございますが〕、使節の随伴に忙殺され、そうするに能わぬのでございます。閣下の御慈悲に寄り添っておりますこと確かなれば、細やかながらも私の〔 〕に似つかわしき斯様なことにつき、お忘れになられることなく私へ寵愛を授けられますよう。閣下への麗しき口づけとともに。

1615年 12月8日 ローマより

閣下へ

〔 〕、下線は筆者の補足よる

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上記の書簡を簡単にまとめますと、トリヴィリャーノ司祭長就任のための推薦状執筆をフィリッポ1世に依頼したもので、直接お願いに参上すべきところ、慶長遣欧使節関連の仕事が忙しく、それができない(書簡の下線部参照)とフィリッポ1世に申し開きをしている内容となっています。

1615年12月5日というと、慶長使節一行のローマ滞在真っ只中、ローマの貴族、バチカン関係者などとのあいだで連日にわたりイベントが続いていた時期と一致します。アマーティも折衝役として八面六臂の活躍をしていたことでしょう。

これは、あくまで筆者の解釈ですが、アマーティは推薦状執筆をフリッポ1世に直接願い出ることができず、その後ろめたさと、自分に対する心証悪化を懸念し、少しでもフィリッポ1世の気をアマーティに引きつけておくべく、当時のイタリアでは非常に珍しかった和紙に書面を認めたのだと考えられます。そうしたアマーティの「閣下の気をこっちに引きつけておきたい!」という感情の機微は、書簡末尾の「閣下の御慈悲に寄り添っておりますこと確かなれば、細やかながらも私の〔 〕に似つかわしき斯様なことにつき、お忘れになられることなく私へ寵愛を授けられますよう。」からも読み取ることが出来ます。アマーティが持っていた和紙は、おそらく慶長遣欧使節日本人随行員より譲り受けたものと考えられますが、誰から譲り受けたのか、日本のどの地方で作られた和紙なのかは、全く不明で、今後の研究課題の一つとなっています。