学習室エッセイ
開国期以前の滞日西洋人が伝えた日本の音・音楽(4)
- 著者
- 光平有希
- 掲載年月日
- 2021-09-29
邦楽に物足りなさを感じたメイラン
ヘルマン・フェリックス・メイラン(1785-1831)は、バタビアで財務検査官を勤めた後、1826(文政9)年に出島のオランダ商館長に就任。その後の約4年間を日本で過ごしました。1830年にメイランは日本に関する素描記録『日本』をアムステルダムで出版しています。その内容は政治・宗教・民族・言語・美術・技術・産業等の詳細な調査をして記述したものでした。同書の第12章「日本人の美術・工芸と産業ならびに技術・学問について」には音楽の記述もみられ、メイランは次のように記しています。
日本人たちは、音楽の大愛好者である。しかしながら私の判断によれば、それは、彼らが進歩を遂げなかった芸術の一つである。彼らの音楽は、荘重さもなければ、また楽しさもないものであり、それはヨーロッパにおいては、一方ではわれわれのアダージオによって、そして他方ではわれわれのアレグロによって引き起こされるものである。また、それをうっとりさせるものとするためには、われわれのアンダンテがすぐれて適している。そして、われわれの行進曲のなかに見られる尚武の精神は、さらに少ないのである。とりわけ彼らの音楽は、ほぼ完全に調和に欠けているのが目立っている。バス、テノール、そしてソプラノの概念を、彼らはほとんど、または全く持っていないのである。というのは、彼らはさまざまな異なった楽器を合奏するが、しかし常に斉奏しているからである。
メイランが『日本』を著わした19世紀は、西洋音楽では古典派音楽からロマン主義音楽あるいは標題音楽への大きな転換期に差し掛かった時期でもあります。とりわけ19世紀前半は、ドイツ出身の作曲家ベートーヴェンの革新的な作風が音楽表現の幅を拡大し、ロマン派への扉を開きました。また、同時代のフランスではポーランド出身でピアノの詩人とも称されたショパンが詩情あふれるピアノ作品を多数生み出し、ベルリオーズが1830年に標題音楽の傑作〈幻想交響曲〉を発表します。
さらに、メイランが生まれ育ったオランダでは、17世紀以降オルガン音楽の繁栄が際立ち、「ドイツ・オルガニストの祖」とうたわれるスウェーリンクを輩出。18世紀になると、アムステルダムはヨーロッパ楽譜印刷の一大中心地となり、そうした音楽的地盤はイタリア後期バロック音楽のヴァイオリニスト兼作曲家で壮年期にアムステルダムに移住したロカテッリや、オルガニストとしても活躍した作曲家ヘレンダールを生み出しました。その後、19世紀前半までドイツ音楽の影響を大きく受けたオランダ楽壇では、オルガン曲や器楽ソナタ、合奏協奏曲が数多く生み出されていくのです。
このような中で培われたメイランの耳には、日本の器楽曲は「進歩を遂げなかった芸術の一つ」に捉えられ、また「荘重さもなければ、また楽しさもないもの」として印象付けられました。メイランが期待するような同時代の西洋音楽に見られる自由なリズム展開や速度の揺れは、三味線や琴、琵琶の楽曲には認められず、彼が音楽的「調和」と捉えていたであろう複数の独立した声部(パート)からなるポリフォニー的な響きもまた、独奏邦楽では影を潜めます。メイランの記述には、フロイスやケンペル、ツンベリーのような違和感というよりは、日本の器楽曲あるいは器楽演奏に対する物足りなさが滲み出ているようにさえ感じます。
他方、メイランは、琴や三味線、琵琶、胡弓のほか、雅楽器である笙や篳篥、さらに鐃鈸、鈴、神楽太鼓、尺八、締太鼓、小鼓、大鼓、磬、太鼓、横笛、摺鉦、鞨鼓、喇叭、チャンチャン、カタハリ太鼓など多種多様な楽器を紹介しています。そこでは名称や形状、音色を説明していますが、とりわけ形については、シンバルやギター、ケトルドラム、タンバリンなど西洋楽器と比較させながら解説しています。その他、お座敷での謡いや舞踊、舞台芸術についてもメイランは紹介しており、多くの記述を割いて日本の音楽文化について言及しています。
参考文献メイラン『日本』(新異国叢書大Ⅲ輯1)庄司三男訳、雄松堂出版、2002年。
G.F. Meijlan. Japan :voorgesteld in schetsen over de zeden en gebruiken van dat ryk, byzonder over de ingezetenen
der stad Nagasaky. 1830. (国際日本文化研究センター所蔵)