学習室エッセイ

井上章一所長 講演レポート(共同研究会第一回)

著者
小川仁
掲載年月日
2021-11-04

第 1回「西洋における日本観の形成と展開」共同研究会レポート(2) 

本レポートでは、「西洋における日本観の形成と展開」共同研究会の2日目(10月24日)に日文研の井上章一所長が「細川ガラシャとイエズス会の物語」と題して行った基調講演の内容をご報告します。著作『美人論』(朝日新聞社、1995年)など、長年、風俗史や日本文化史の観点から「美人」について多角的に考察を深めてこられた井上所長。今回は絶世の美女と目される細川ガラシャをめぐり、どのようなお話を展開されたのでしょうか。

まず、井上所長は、細川ガラシャが美人だったとする歴史資料が、一切残されていないにもかかわらず、司馬遼太郎や三浦綾子がガラシャを自他ともに認める絶世の美女であったかのように描いていることに疑問を呈します。というのも、ガラシャが認めた書簡にも、ガラシャの侍女の覚書にも、ガラシャが美しかったとする記述は残されておらず、また、キリシタンとなったガラシャと対話したイエズス会宣教師の書簡にも、ガラシャが聡明で徳のある女性であったとは記されてはいても、その容姿については何も言及されていなかったのです。

ガラシャが亡くなって半世紀以上あとにも、コルネリウス・ハザールやジャン・クラセといったイエズス会士たちによって著された日本布教史において、細川ガラシャはヨーロッパで語り継がれていくこととなります。しかしながら、これらの著作中では、関ケ原の合戦前夜に自ら命を絶ったはずのガラシャが、命を賭してキリスト教の信仰を守り抜いた、すなわち殉教を遂げた絶世の美女として描かれるようになっていきました。

井上所長は、細川ガラシャの人物像に突如として「絶世の美女」という評価が加わったことに着目し、さらに議論を進めていきます。ヨーロッパのキリスト教絵画では、聖書にその容姿について殆ど言及されていない聖母マリアが美女として描かれ、キリスト教の迫害を受けて殉教していった女性たちもまた美の対象として扱われていたことを、鋭く指摘します。このようなキリスト教世界独特の言説の中で、ヨーロッパにおいて「細川ガラシャ=殉教女性=美女」という図式が成立していたのではないかと、井上所長は推測するに至っています。

一方で、江戸時代の日本では、細川玉(ガラシャ)が美女として取り上げられている文献がいくつか認められるものの、主流の評価には至りませんでした。しかし明治時代に入ると、かつては迫害の対象とされてきたキリスト教が、今度は西欧社会を理解するために必要な知識となっていきます。そこで先述したジャン・クラセの『日本キリスト教史』が、日本語に翻訳され、西欧を理解するための道具の一つとして広く使われるようになっていったのでした。そして、当該著作内において、細川ガラシャが絶世の美女であると紹介されていたことから、そのイメージが多くの作家たちに共有され、さらに細かなイメージへと再構築されていくことで、「美女・細川ガラシャ像」が日本に定着・浸透していったと、井上所長は結論付けました。

このように、細川ガラシャという一人の女性を取り上げつつ、美女というイメージが、社会背景に敏感に反応しつつ、洋の東西を問わないダイナミズムのなかで織り込まれていることが、明らかとなった、非常に刺激的な講演となりました。講演後の質疑応答では、ヨーロッパにおける殉教のイメージなど、共同研究会での今後の研究課題にも繋がる活発な議論が展開されました。