学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑤

著者
呉座勇一
掲載年月日
2023-01-26

ルイス・フロイスが記した永禄の変(2)

前回の連載で紹介した通り、永禄の変に関するルイス・フロイス『日本史』の記述には矛盾が見られる。ある箇所では将軍足利義輝の殺害を目的としたものと記し、またある箇所では足利義輝に危害を加えることは考えていなかったと記している。

よく知られているように、『日本史』は、フロイスの書簡・報告書が基になっている。永禄の変に関しても、フロイスは書簡を認めている。

政変直後の1565年6月19日、京都にいたフロイスは豊後国の司祭・修道士に政変について報告している。それによれば、三好勢が取次の「老人」を通じて義輝側に要求した条項の一つは、義輝の「奥方」と義輝の側室である「老人」の娘、義輝の側近らを殺せ、というものだった(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第2巻)。「老人」は進士晴舎のこと、「老人」の娘は小侍従局と推測され、『日本史』の後者の記述と概ね一致する。同時代史料で裏付けが取れる後者の記述を重視すべきだろう。松永久秀の野望を強調する前者の記述は、フロイスが後から付け足した見解と考えられる。

日本側史料も見てみよう。この政変を叙述した軍記物『永禄記』は、三好勢が「公方様に対して訴えたいことがある」と言って「御所巻」に及んだ、と記す。「御所巻」とは、将軍に対する異議申し立てのために将軍御所を包囲する示威行為のことで、幕府内の有力者を失脚させることを主な目的としており将軍に危害を加えることは意図していない。一次史料である(永禄八年)六月十六日直江正綱付山崎吉家・朝倉景連連署書状(「上杉家文書」)にも、「三好左京大夫・松永右衛門」が「訴訟」と称して将軍御所に押し寄せたと書かれている。

やはり三好勢は将軍義輝の殺害までは考えていなかったのであろう。せいぜい義輝を引退させる程度の計画だったと思われる。しかしながら義輝側が強く反発した結果、軍事衝突となり、義輝と近臣たちが戦死する(『言継卿記』など)という想定外、前代未聞の事態が発生したのである。

なお三好左京大夫は三好義継、松永右衛門は松永久通(久秀の嫡男)である。当時、松永久秀は大和国(現在の奈良県)におり、政変に直接関与していない。久秀が政変の首謀者であるとする『日本史』の記述は疑わしい。次回、『日本史』の記述の疑問点をさらに指摘していきたい。