学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑥

著者
呉座勇一
掲載年月日
2023-02-15

ルイス・フロイスが記した永禄の変(3)

これまでの連載で紹介した通り、ルイス・フロイス『日本史』は永禄の変について、松永久秀が三好義継と共謀して、足利義栄を新将軍に擁立するため、将軍足利義輝を殺害した事件である、と説明している。この記述は本当だろうか。日本側史料と突き合わせてみよう。
確かに永禄の変当時、三好勢が義輝を殺害したのは「阿州の武家」を上洛させるためだという噂が流れた(『言継卿記』)。また梅仙軒霊超という僧侶は、伊予国の大名である河野通宣に義輝が討たれたことを伝える書状の中で「阿州公方」を上洛させる計画があるのではないかと推測している(「河野文書」)。「阿州の武家」「阿州公方」とは、阿波国(現在の徳島県)にいた足利義栄(義輝の従兄弟)のことである。しかし、義栄が四国から畿内に移るのは、永禄の変から1年半後の永禄9年(1566)9月であった。この渡海を主導したのは阿波三好家の篠原長房であり、三好義継や松永久秀が義栄擁立に積極的だったかどうかは定かではない。
松永久秀は政変直後、義輝の弟で奈良の興福寺一条院に入寺していた覚慶(のちの足利義昭)に対して身の安全を保証し、覚慶を安心させている(「円満院文書」)。久秀が覚慶を保護したのは、覚慶を新将軍として擁立するためだったとも考えられる。
そもそも松永久秀は三好義継と懇意ではなかった。久秀は三好長慶・義興父子に仕えていた。永禄6年8月、長慶の嫡男の義興が22歳の若さで亡くなり、長慶の甥の義継が養子に立てられた。すると閏12月、久秀は嫡男の久通に家督を譲っている。三好氏の代替わりに合わせて、松永氏も代替わりを行ったのである。
翌永禄7年正月、三好義継は三好長逸・松永久通を率いて上洛し、将軍足利義輝に謁見している(『雑々聞検書』)。その後、義継は三好氏の家督を正式に継承し、6月には三好長逸・松永久通ら4000の軍勢を率いて再び上洛し、義輝から家督相続の許しを得ている(『言継卿記』)。この3人が後の永禄の変において主導的役割を担っている。
一方、松永久秀は三好義継の上洛に従っていない。隠居の久秀は三好政権の中枢から距離を置いていたのである。当然、義継らが計画した永禄の変にも関わっていなかったと見るべきだろう。