学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑦

著者
呉座勇一
掲載年月日
2023-05-10

ルイス・フロイスが記した永禄の変(4)

では、ルイス・フロイスが松永久秀を永禄の変の首謀者とみなしたのは何故だろうか。これは、松永久秀が熱心な法華宗信者であることが影響していると思われる。

フロイスは『日本史』で松永久秀を次のように評している。「都の統治は、この頃、次の三人に依存していた。第一は公方様で、内裏に次ぐ全日本の絶対君主である。ただし内裏は国家を支配せず、その名称とほどほどの規模の宮廷を持っているだけで、それ以上の領地を有しない。第二は三好殿で、河内国の国主であり、公方様の家臣である。第三は松永霜台で、大和国の領主であるとともにまた三好殿の家臣にあたり、知識、賢明さ、統治能力において秀でた人物で、法華宗の宗徒である」(第1部54章)、「法華宗の僧侶たちは、他のあるゆる宗派のうちもっとも罪深い連中であり、(松永)霜台とその息子がその派の信徒であったところから当時栄えていた」「(霜台は)法華宗徒であり、デウスの教えを嫌悪している」(第1部66章)と。フロイスは、キリスト教と敵対する法華宗の擁護者である久秀に嫌悪感を持っており、そのことが永禄の変の記述にも反映されていると考えられる。

松永久秀が法華宗の信徒だったことは日本側の史料からも確認できる。彼は京都にある法華宗寺院である本国寺の大檀越であった(「本圀寺文書」)。

フロイスによれば、永禄の変の直後、京都の法華宗教団は朝廷に働きかけ、バテレン(キリスト教の宣教師)を京都から追放する命令を獲得したという。このことは日本側史料からも裏付けられる。『言継卿記』永禄八年七月五日条には「今日左京大夫、禁裏女房奉書申出、大うす逐払之云々」とある。また『お湯殿の上の日記』永禄八年七月五日条も「大うすはらひたるよし、みよし申」と記す。

上記の「大うす」とはデウスのことで、大うすを払うとは、バテレン追放令を意味する。ただし、朝廷に申請したのが三好左京大夫、つまり三好義継であることは留意されて良い。バテレン追放令は三好政権の総意として発令されたのであり、松永久秀が独断で推進したわけではない。むしろ、久秀が永禄の変ならびにバテレン追放令を主導したと記す史料はイエズス会側のものしかなく、必ずしも根拠が十分であるとは言えない。

この時期、フロイスら宣教師の最大の情報源は、松永久秀に仕えていたキリシタンの結城山城守(忠正)であった。このため、久秀の権力が実態以上に巨大なものとしてフロイスらに印象づけられた可能性がある。