学習室エッセイ

日本に初来航したオランダ東インド会社の船の舵手の航海日誌

著者
クレインス桂子
掲載年月日
2023-09-27

国際日本研究センター所蔵コメリン『東インド会社の起源と発展』第2巻所収の「ピーテル・ウィレムセン・フェルフーフ提督の航海日誌」には、日本に初来航したオランダ東インド会社の2隻の船のうちのローデ・レーウ・メット・ペイレン号の舵手レイニール・ファン・ナイメーヘンの航海日誌が68~72頁に挿入されている。

ファン・ナイメーヘンの航海日誌は、1607年12月22日にオランダのテセル港から出帆した記事に始まり、1610年7月20日に再び同港に帰航した記事で終わっている。日本に関する記述は、平戸に到着した1609年7月1日から同年10月3日の朝に平戸を出航するまでのあいだの期間にみられる(71頁)。

そのなかには舵手ならではの記事もみられる。7月1日の朝に平戸と思われたところで、日本の「三板」〔小舟〕が来て、そこは長崎の前であり、平戸は西側にあると告げられたこと、二人の日本人がオランダ船に乗り込み、平戸の海峡まで案内してくれたことが記されている。

また、7月3日条には、多くの大官が船の見学をするために乗り込んで来て、大きな喜びを示していたこと、その数は200人にものぼったことも記されている。

さらに、アブラハム・ファン・デン・ブルックとニコラース・ポイクが日本の「皇帝」(家康)のもとに通商条約を結ぶための使節として2人の助手と1人のオランダ人通訳(メルヒヨル・ファン・サントフォールト)とともに7月27日に平戸から出発し、その後9月13日に船に戻って来たことも記されている。使節が参府旅行に出かけているあいだは、ファン・ナイメーヘンは舵手として、平戸に停泊している所属の船に留まっていたのであろう。

このほか、8月8日条には、船にやって来た平戸藩主を祝砲で歓迎したこと、同月17日条には、長崎奉行が船を訪れたことも記されている。

1609年のオランダ船来航については、「参府日記」を書き残したニコラース・ポイクが知られているが、舵手として日本に来航したファン・ナイメーヘンの書き残した日本についての記述も、情報量としてはわずかながら、初期のオランダ船の船員が書き残した日本情報として興味深い。