学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑨

著者
呉座勇一
掲載年月日
2023-10-04

ルイス・フロイスが記した織田信長(2)

ルイス・フロイス『日本史』は織田信長の神仏否定について、次のようなエピソードも記している。

織田信長は足利義昭を奉じて永禄11年(1568)9月に上洛、三好三人衆らを破って畿内を制圧した。10月には義昭は征夷大将軍に任官した。義昭は将軍就任後、法華宗寺院である六条本圀寺を居所としていたが、永禄12年1月、信長が岐阜に戻った隙をついて、三好三人衆らが本圀寺を襲撃する。当時京都に残っていた信長の家臣たち、および義昭の側近らの奮戦により撃退に成功するが、これを教訓として信長は義昭の身の安全のため、強固な将軍御所(二条御所)を築くことにした。

この工事についてフロイス『日本史』は以下のように記す。「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、頚に縄をつけて工事場に引かしめた。 都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を 生ぜしめた。領主の一人は、 部下を率い、各寺院から毎日一定数の石を搬出さ せた。人々はもっぱら信長を喜ばせることを欲したので、少しもその意に背く ことなく石の祭壇を破壊し、仏を地上に投げ倒し、粉砕したものを運んで来た。」と。

フロイスは、信長が神仏を信じていないがゆえに、このような破壊行為に及んだと解釈しているようだが、果たしてそうだろうか。近世城郭においては、福知山城や姫路城など、石仏や石塔、石灯籠、墓石などが石垣に転用されている事例が多く見られる。最も有名なのは、豊臣秀長が築城した大和郡山城の「さかさ地蔵」であろう。天守台の石垣に石地蔵が逆さまに用いられている。この時代の人々にとって、神仏を信仰することと、石仏などを石材として用いることは必ずしも矛盾しなかったのであろう。あえて石仏を石垣に用いることで、城を呪術的に守るという意味があった可能性も考えられる。石仏を石材にすることを信長の神仏否定の証拠とみなすのは、フロイスの先入観にすぎない。

またフロイスによれば、信長は二条御所を建造するにあたって、本圀寺の建物の多くを解体して移築したという。すなわち「きわめて巧妙に造られた塗金の屏風とともに、あるがままこの寺院のすべての豪華な部屋を取り壊し、それを城の中で再建することを命じた」という。法華宗はキリスト教と敵対的だったので、本圀寺の嘆願のかいなく移築が強行されたことを、フロイスは「かの傲慢にして悪魔的な寺院の幸いな結末」と喜んでいる。けれども、こうした解体移築もこの時代には良く見られるもので、信長の行為が神仏を恐れぬ蛮行(フロイスから見れば「邪教に惑わされない英断」)とは断定できない。