学習室エッセイ

ポルカが表象する日本の軽業師

著者
光平有希
掲載年月日
2023-10-18 

◆海をわたった日本の軽業師

1870年代末から1890年代初頭にかけて、とりわけ「ポルカ」と銘打たれた日本表象の楽曲が目立つようになります。この背景には、西洋に渡った初期の日本興行師、とりわけ軽業・曲芸師一団の影響があるように思われます。ポルカとは、1830年頃にはじまったチェコの民俗舞踊。速いテンポ、弾んだステップ、「短短長」のリズムが特徴的で、19世紀前半からワルツやマズルカと並び舞踏会やダンスホールでも重要な役割を果たすようになりました。

テデスコ作曲〈日本風ポルカ〉
テデスコ作曲〈日本風ポルカ〉
フィッシャー作曲〈女軽業師ポルカ〉

渡欧興行一座のさきがけとなった「帝国日本芸人一座(Imperial Japanese Troupe)」は、アメリカ人のリチャード・R.リズリー・カーライルによって組織されました。自身もサーカス団の一員として世界中を回っていたリズリーは、来日後1864(元治元)年に横浜居住区で最初の劇場を建て、西洋サーカスを日本にもたらした人物としても知られています。そのリズリーが、西洋で一旗揚げようと日本人一座を組織し、手品師や足芸、曲持、綱渡りを得意とする者、さらに三味線弾きや太鼓打ち、道具方など総勢18名の日本人から成る一座を結成します。彼らは西洋、とりわけ1867年のパリ万国博覧会を目指す舞台としました。1866(慶応2)年秋、江戸幕府から「御印章」を授けられた一行は、1866(慶応2)年冬に横浜から出港、アメリカ経由でヨーロッパに渡り、パリへ赴いたのち再びアメリカ経由で1869(明治2)年春、帰国の途についています。

「帝国日本芸人一座」が、まず到着したサンフランシスコで公演をスタートしたのは、1867年1月7日のこと、公演の舞台はアカデミー・オブ・ミュージック(Academy of Music)でした。同時期にあたる1866から67年にかけては、判明しているだけでも「ミカド一座」「グレート・ドラゴン一座」「フジヤマ一座」「早竹虎吉一座」といった複数の興行師一行がアメリカに渡っており、メトロポリタン劇場などで公演を成功させていました。

アメリカでの公演を無事済ませた「帝国日本人一座」一行は、一路ヨーロッパを目指します。「帝国日本人一座」の出国と時期を同じくして「松井源水一座」という劇団もまたパリ万博に赴くため日本を発ち、2つの劇団は、1868年7月パリに到着するなり万博での公演準備にとりかかりました。遣仏使節団の徳川昭武が7月20日にフランス帝国劇場にて「松井源水一座」を、そして7月30日にはナポレオン円形劇場にて帝国日本芸人一座の公演を観ています。万博でも日本から来た芸人達の公演は大評判であり、とりわけ白紙を切って蝶を作り、扇の風でそれを操る「浮かれ蝶」に現地の人びとは魅了されたといいます。

 

◆万博で好評を得た芸の妙技

同じ芸人でも「源水一座」は、万博の日本茶店で現地の観客をもてなすため、江戸柳橋、松葉屋のお抱え芸者3名をも幕府の貨物船に乗り込ませていました。万博会場に据えられた日本茶店は、ヒノキ造りの六畳敷と土間がある空間で、軒には提灯が吊り下げられ、日本風情を醸し出していました。こうした多種多様な芸人の技ともてなしは、これまで文物だけを通して日本を知っていた多くの西洋人に衝撃と興味をもって受け入れられ、各紙面を大いに賑わせました。

1873年、ウィーン万博の時には「トリカタ・日本一座」という一行が、「ゴドフロイ」や「テン・アル・ヘー」「レンツ」といった著名サーカス一座と組んで出演し、好評を博します。「トリカタ・日本一座」の座長である鳥潟幸之助は、17歳の頃から大阪で軽業師となり、1866(慶応2)年イギリス人グラントに連れられて、独楽回しの松井源水とともに渡欧。ロンドンで絹糸渡りを披露し、世界一と賞された人物です。「トリカタ・日本一座」結成後は、イギリス、フランス、ドイツなどで巡業を展開し、行く先々で評判となりました。こうした芸人一座の姿が、とりわけ1880年代のシートミュージックには、挿絵となって「日本人イメージ」を形成しています。

バスール作曲〈大君ポルカ〉