学習室エッセイ

ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑫

著者
呉座勇一
掲載年月日
2024-08-07

信長に仕えた黒人「弥助」とは何者か(3)

弥助と見られる黒人は、本能寺の変でも活躍したと言われている。その典拠は、ルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てて送った1582年11月5日付日本年報である。フロイスは日本各地にいるイエズス会士から送られた書簡の内容を整理して、毎年「日本年報」という報告書をゴア経由でイエズス会総長宛に送付していた。
フロイスは同年10月31日付の日本年報を既に完成させていたが、本能寺の変に関する詳しい情報が入ってきたので、織田信長の死について報告する日本年報を新たに追加したのである。11月5日付日本年報は、信長の事績を振り返り、謀反を起こした明智光秀の経歴・人物像を紹介し、本能寺の変の経緯について語っている。その中に弥助と見られる黒人が登場している。以下に掲げよう。

「我等カザ(筆者註:修院)にゐた者が一層惧れたところは、明智が悪魔及び偶像の友であり(筆者註:明智光秀が仏教徒であることを指す)、我等と親しからず、デウスの教(筆者註:キリスト教)を嫌ってゐたのみならず、我等は信長の庇護を受けた者である故、火をカザに放たせ、その部下が聖堂の物を掠奪するであろうことであったが、明智は都の街々に布告を発し、市を焼くことはない故、安堵し、彼が成功したことを喜ぶべく、もし兵士にして害を加ふるものがあれば、これを殺すべしと言った。またビジタドール(筆者註:巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子(筆者註:信長の嫡男信忠)の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣にこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故、これを殺さず、インドのパードレ(筆者註:宣教師)の聖堂に置けと言った。
これによって我等は少しく安心した。」
(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』雄松堂書店)

フロイスの記述からは、以下のような状況が浮かび上がる。本能寺の変が起こった時、弥助は信長の側にいたが、信長が自害すると本能寺を脱出して、信忠のもとに向かった(なお信忠は京都妙覚寺に宿泊していたが、信長の死を知ると、誠仁親王の居宅である二条新御所に移動した)。信忠を討つべく明智軍が攻め寄せると、弥助は信忠方として奮戦するが、信忠が自害したため、明智方に降伏した。光秀は弥助を助命し、イエズス会の教会に預けた。
イエズス会関係史料にも『信長公記』にも、弥助の怪力が記されているので、弥助が刀で戦ったとしても不自然ではない。弥助は信長のボディガード的な役割を担っていた可能性がある。信長が死ぬと、弥助が信忠の元に駆けつけて戦ったという記述には一定の信憑性がある。
ただし、本能寺の変が起こった時、フロイスが京都にいなかったことに注意すべきであろう。フロイスは島原半島にある口之津という港町に滞在していた。当時、口之津はポルトガル船が寄港する国際的な貿易港であり、イエズス会の重要な拠点だった。フロイスは、京都の布教を担当していたフランシスコ・カリオンという宣教師から、本能寺の変に関する書簡を受け取り、その書簡に基づいて日本年報を執筆したのである。
むろん、弥助が京都の教会に預けられたのだとすると、カリオンは弥助と会っているはずで、カリオンからの情報には一定の信憑性がある。けれども、現在私たちが見ることができるのは、カリオンの書簡ではなく、フロイスの日本年報である。日本年報に記された弥助の情報は、あくまで伝聞情報である。
この点に関連して気になるのが、年報よりもずいぶん後にフロイスが著した『日本史』に、弥助に関する記載がない点である。フロイスの『日本史』における本能寺の変に関する記述は、1582年11月5日付日本年報(の控え)を参考にしているが、弥助には一切言及していない。明智光秀が市街を焼かないと布告したので宣教師たちが安心した、というくだりはフロイス『日本史』にも見えるので、弥助に関する記述を意図的に削除したものと思われる。
フロイスにとって、本能寺の変において弥助が刀で奮戦したという話は重要でないか、あるいは眉唾だったのだろう。
ちなみに、17世紀の終わりから18世紀の初めまでの間にフランスでイエズス会日本年報の情報に依拠して日本におけるキリスト教布教史が刊行されるようになった。フランスのイエズス会士ジャン・クラセが1689年にパリで刊行した『日本教会史』はその代表的な著作である。
クラセの『日本教会史』には、弥助に関する記述が見える。以下に引用する。

「(アレキサンドル・ワリニヤン)大師は印度より黒奴一人を俱したりしが、京に入る時衆人皆此奴を見んとして群聚せり。大師は此奴をして信長に謁せしめたる時、信長大に驚き、其膚色は人身の真色たることを信ずる能はざりしを以て、已むを得ず衣を脱し半身を顕はさしめ、仔細に点検して稍々真の膚色なることを信じたり。信長は師父等を厚遇し、大師大師は又日を期して再会を約したり。」
(大政官本局翻訳係訳『日本西教史』上巻、洛陽堂)

信長が黒人(弥助)の黒い肌を見て驚いたというクラセの記述は、前々回の連載記事で紹介したフロイスの書簡を踏まえてのものだろう。フロイスの書簡は、他のイエズス会宣教師の報告書と共に編纂され、1598年にポルトガルのエーヴォラで『日本書簡集』(通称「エーヴォラ版」)としてポルトガル語で出版されていたから、クラセもフロイスの書簡を容易に参照することができた。
ところがクラセの『日本教会史』には、本能寺の変における弥助の奮戦に関する記述はない。これより以前、フランスのイエズス会士のフランソワ・ソリエーが1627年に刊行した『日本教会史』でも、信長と黒人との出会いについては記すものの、黒人の奮戦には触れていない。
イエズス会士が全く興味を示さなかった「黒人が刀を使って日本で戦った」という話が、400年後にゲームの題材となり、世界中の注目を集めるようになるとは、何とも不思議なことである。