ライブラリー地図
日本帝国図
解説
本図は、当時のオランダを代表する東洋学者、地図学者であったレーラント(Adriaan Reland, 1676 – 1718)が製作したユニークな日本図で1740年にアムステルダムで出版された地図です。レーラントは、17世紀終わりから18世紀初めにかけて活躍したオランダを代表する東洋学者、地図学者で、1701年に若干25歳にしてユトレヒト大学の東洋言語学教授に任命されています。1708年に彼が刊行した『論集』第3巻には、「東洋諸島地域の諸言語に関する考察」という論文が収録されており、日本語や中国語研究の先駆的研究者としても知られています。
一見して気づくようにこの日本図は、国名がローマ字表記に加えて漢字でも記されています。これは、レーラントが本図の作成にあたって手本としたのが、1691年に石川流宣が刊行した「大日本国大絵図(本朝図鑑綱目)」という日本製の地図だったことに由来しており、その旨が地図下部にラテン語で記されています。「流宣図」と呼ばれるこの地図は17世紀末から18世紀にかけて広く日本で用いられていた地図で、オランダ商館関係者が来日時に持ち帰ったものをレーラントが見ることができたものと思われます。
「流宣図」は、近代的な地理学的正確さを表現するというよりも、絵図としての性格が強く、デフォルメされて日本が描かれていることが大きな特徴で、この図を手本としたレーラントの日本図は、それまでのヨーロッパ製日本図と比べて地理学的な正確さが後退することにもなってしまいました。その一方で、漢字で書き込まれた藩名や装飾性の卓越さのゆえに刊行直後から大いに好評を博すことになりました。地図左下などに描かれている日本の人々や風景は、豊富な図版を収録した初の「日本誌」として一世を風靡したモンターヌス(1625 – 1683)の『東インド会社遣日使節紀行』収録図から転用されています。右下にはオランダ商館関係者の手による長崎湾周辺図が別図として掲載され、その周囲は家紋と思しき意匠で飾られており、全体として非常に装飾性の高い地図となっています。
この地図が最初に刊行されたのは1715年ですが、好評を博して何度も再版がなされており、本図は1740年にアムステルダムで刊行されたものです。レーラントによるこのユニークな日本図は、再版が繰り返されただけでなく、これを範にした類似の日本図が多くの書物に転載される形でも18世紀を通じて大きな影響力を持ちました。1715年に刊行されたベルナール(Jean Frederic Bernard, 1680 – 1744)の『北方旅行記』第3巻収録日本図や、1720年に刊行されたシャトレアン(Henri Abraham Chatelain, 1684 – 1743)の『歴史地図帳』第5巻収録日本図などにその例を見ることができます。
(執筆:羽田孝之)