強大なムガル王国、ならびに日本王国に関する報告

出版年 1598
著者 オルガンティーノ / ペルースキ
出版地 マインツ
言語 ラテン語
ドイツ
分類 イエズス会

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解説

 本書は、60ページにも満たない小冊子ですが、前半と後半とで異なる地域でのイエズス会士による布教報告書が収録されています。前半に収録されているのは、アクバル大帝(Jalāl’ud-Dīn Muhammad Akbar, 1542-1605)統治下のムガル帝国についての報告書で、イエズス会の同地域における最初期の報告書として大変重要視されているものです。日本に関する報告書は、後半(29ページ)に二通の書簡が掲載されています。本書は、前年1597年にイタリア人のイエズス会士ペルースキ(Giovanni Baptista Peruschi)が、本書の前半と後半とをそれぞれ別の書物としてイタリア語で刊行されたものを一冊に合わせてラテン語に翻訳して出版されたものです。
 本書後半部は、イエズス会士オルガンティーノ(Organtino Gnecchi-Soldo, 1533-1609)による、1594年と1595年に京都から発信された日本についての布教報告書簡2通を収めたものです。オルガンティーノは、30年以上にわたって京都を中心とした近畿地方で布教を行い、日本人と同様の服装をまとい食事をとり、日本語にも堪能であったことから、「うるがんばてれん(宇留岸伴天連)」の愛称で呼ばれ、多くの日本人に慕われました。織田信長にも重用されたほか、豊臣秀吉とも交流した宣教師でもあり、織豊時代の西欧人の証言者としては、ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532 – 1597)と並ぶ人物です。
 最初に収録されている書簡は、1594年9月29日付でミヤコ(Meaco, 京都のこと)から発信されたものです。1591年の天正遣欧少年使節の帰国以降、再び京都在住を許されてからは、目覚ましい布教の成果が上がっていることを強調しており、今や京都所司代(前田玄以法印)の愛息さえも洗礼を受けたことを報告しています。また、秀吉の統治方法の特徴について10の項目ごとに報告しており、武力紛争の厳格な禁止によって平和が訪れたことや、その一方で社会基盤の大部分を支える農民に対しては過酷な窮乏状態にあえて追いやっていることを述べています。全体として、布教の見通しは極めて明るいことが報告されており、それゆえに一層の人員派遣を総長に随所で求めています。
 後半に収録されている書簡は、1595年2月14日付で同じく京都から発信されたものですが、前書簡に比べてこちらの方がかなり長文になっています。前書簡のわずか4ヶ月ほど後に書かれたものであるにも関わらず、秀吉による迫害の可能性についてかなり敏感になっている様子が伺えます。しかし、布教の見通しについては依然として希望を持って報告されており、畿内を中心とした布教動向についてそれぞれ詳細に述べられています。
 書簡内で言及されている人物を列挙するだけでも、豊臣秀吉、その妻である高台院(北政所)、小西行長、前田玄以(京都所司代)、その息子である前田茂勝とその兄の前田秀以、織田秀信(信長の孫)とその弟織田秀則、細川ガラシャ、その夫である細川忠興の弟、細川興元、その両親、細川幽斎、沼田麝香(じゃこう)、高山右近、毛利輝元、宇喜多直家とその異母弟である宇喜多忠家、その息子、宇喜多詮家(坂崎直盛)、蒲生氏郷(何故か洗礼名が前半ではパウロ、後半ではレオンとある)、池田教正、小西行長の弟である小西如清とその妻アガタ、アガタの父である日比屋了珪、施薬院全宗と、秀吉政権下に登場する錚々たる人物が多数含まれています。
 なお、これらの書簡は、1605年にイエズス会の神学者ヘイ(Joh, Hay, 1546-1607)が編纂した『日本、インド、ペルー書簡集』にも再収録されています。

(執筆:羽田孝之)

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