著名武将列伝

出版年 1683
著者 クラッソ
出版地 ヴェネツィア
言語 イタリア・ラテン語
イタリア
分類 世界史

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解説

  『著名武将列伝』(Elogi di capitani illustri, Venezia, 1683)は、16~17世紀の著名武将98名の事績が評伝形式で紹介されている17世紀後半にイタリアで出版された著作です。著作内ではヨーロッパ人だけではなく、豊臣秀吉や徳川家康も当時活躍した武将として取り上げられています。
 本解題ではまず、当該著作の著者であるロレンツォ・クラッソ(Lorenzo Crasso, 1623-1691)の生い立ち、彼の代表著作、『著名武将列伝』の概要を紹介したうえで、クラッソにより描かれた豊臣秀吉と徳川家康について解説していきます。

<ロレンツォ・クラッソ:ナポリ随一の文筆家>

   本著作を著したロレンツォ・クラッソは、ピアヌーラ男爵(Barone di Pianura)1や法学博士という肩書を持っており、弁護士として活躍した一方で、痛風に悩まされながらも私設図書室で執筆活動に勤しみ、多くの著作を出版した17世紀中葉のナポリを代表する文筆家の一人でした。当該図書室でクラッソは、イタリア人のフランチェスコ・パトリツィ(Francesco Patrizi, 1529-1597)やジャンバッティスタ・ジラルディ・チンツィオ(Giambattista Giraldi Cinzio, 1504-1573)、オランダ人のヘーラルツ・ヨハネス・ヴォス(Gerhard Johannes Voss, 1577-1649)といった哲学者らの資料や著作を熱心に収集・整理し、不完全な状態にあったこれらの資料群をひとつにまとめ上げようとしています2。クラッソの同時代1678年に出版された『ナポリ叢書』3では、「クラッソはナポリ市、ナポリ王国随一の文筆家であり、才気に満ち溢れ、その学識と博識において永遠の名声を得ている」と称賛されています。クラッソが、ナポリの著名なアカデミー「オズィオージ・アカデミー」(Accademia degli Oziosi)4の会員であったことがその証左であり、彼が文才に恵まれていたことは間違いないでしょう。

<クラッソの代表的著作と『教養人列伝』の著述形式>

    クラッソの主な著作としては、オヴィディウスの詩集『名婦の書簡』(Heroiden)を模した、詩集『英雄書簡』(Epistole Heroiche Poesie, Venezia, 1655)、『ギリシア詩の歴史』(Istoria dei poeti greci, Napoli, 1678)、『詩論』(Poesia, Venezia, 1685)、そして2巻から成る『教養人列伝』(Elogii d’huomini letterati, Venezia, 1666) などが挙げられます。
    ここで言及すべきは、『教養人列伝』の著述形式です。当該著作では、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564-1642)や、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)、トマソ・カンパネッラ(Tommaso Campanella, 1568 – 1639)、トルクァート・タッソ(Torquato Tasso, 1544 -1595)をはじめとする、16世紀から17世紀中葉にいたる西欧の文学者、哲学者、科学者、聖職者等が、第1巻で73名、第2巻で71名紹介されています。一項目に一人の人物伝から構成される本著作は、各項目冒頭に紹介人物の肖像画(銅版画)が付され、それぞれの人物の経歴や事績が2~5ぺージ程度綴られたのち、クラッソ等による紹介人物に対する散文形式の賛辞(Elogio)で締め括られています。
    このように銅版画と評伝を組み合わせ、多くの人物を紹介する著作は、クラッソ以前にもイタリアでは幾つか著されており、とりわけロシオ・ジュリオ(Roscio Giulio, 1550-1591)とポンピリオ・トッティ(Pompilio Totti, 1591- 1639)により編纂され、1635年にローマで出版された『著名武将列伝―その肖像と賛辞―』5の著述形式は、クラッソが1666年に著した『教養人列伝』とほぼ同一です。『教養人列伝』には、各評伝末尾に散文形式の賛辞を据えるというクラッソなりのオリジナリティが認められますが、彼が当該著作を執筆する際にトッティの著作を大いに参考にした可能性が極めて高いということができるでしょう。

<『教養人列伝』を踏襲している『著名武将列伝』>

 『著名武将列伝―その肖像と賛辞―』の影響を受け、『教養人列伝』では散文を組み込むこむことで、一つの評伝の形式をくみ上げたクラッソは、『著名武将列伝』においても、上述二著作の評伝形式のほぼすべてを踏襲しています。クラッソが『教養人列伝』執筆の際に培った経験を『著名武将列伝』に活かしたと見て間違いないでしょう。
    一方で、ジュリオとトッティの著作を参考にして『教養人列伝』を執筆し、その後『著名武将列伝』を書き上げたという経緯を鑑みると、『教養人列伝』の執筆以前より、世界の武将の評伝を執筆するという着想を得ながら、文人・武人の別なく多種多様な人物像に興味を抱き、それらを『著名武将列伝』と『教養人列伝』としてまとめ上げることで、壮大な列伝計画を実現しようとしていたと捉えることもできます。
 さて、『著名武将列伝』では、当時活躍した武将98名の評伝が列挙されており、私たちに馴染み深いところでは、1人目には豊臣秀吉(1-5ページ)が、10人目(47-51ページ)には徳川家康の評伝が掲載されています。ほかにもムガール帝国のアクバル帝や、フランス国王ルイ13世、30年戦争で名を馳せたスウェーデン国王グスタフ・アドルフなどが取り上げられており、紹介されている武将を地域別に分類してみますと、ヨーロッパ84名、トルコ・ペルシア10名、日本2名、インド1名、中国1名といった分布となります。この分布を瞥見してみますと、『著名武将列伝』においてクラッソが、世界的な視野で武将たちの活躍を俯瞰していたことを窺い知ることができます。ヨーロッパの武将のみを対象としていた先述のジュリオとトットィの著作とは対照的です。
    さらに当時ナポリを支配していたスペイン国王カルロス2世(Carlos II, 1661年‐1700年)に宛てられた献辞、および「読者への辞」でクラッソは、先人の事績を引用しつつ、天賦の才に恵まれ、類まれな活躍したにもかかわらず、これまで光が当てられることのなかった武将たちを紹介したいと、その著作意図を述べています。

<太閤様と内府様>
1.豊臣秀吉
 『著名武将列伝』の巻頭を飾るのは「太閤様:日本の皇帝」(Taicosama Imperatore del Giappone)こと、豊臣秀吉です。イエズス会の日本報告や書簡集、商人らの報告集、それらに基づき編集された地理書といった類の書籍は、イタリアをはじめとしたヨーロッパ各地で流布し、広く読まれていました。私設図書室を有していたほどのクラッソであればヨーロッパ外の武将について調べ上げることは比較的容易であったことでしょう。当時のヨーロッパにおいて、イエズス会士の報告を通して豊臣秀吉の事績、とりわけ秀吉晩年のキリシタン迫害はよく知られており、それらがクラッソの琴線に強く触れたために、巻頭に据えられたのかもしれません。

豊臣秀吉
豊臣秀吉(Taicosama)

 クラッソは秀吉について、まず初めに偉大な皇帝であり、悪というよりも徳に満ちた人物で君主体制を確立した人物として評価しています。評伝の前半では、秀吉が襤褸を纏い、食料を得るために森で刈って担いできた薪を町で売るほど貧しかった生い立ちに触れられ、貧乏に嫌気がさすと、刀を取って戦場へと赴き、信長に取り立てられて以降は出世を重ね、毛利勢と対峙した中国攻めでの活躍、本能寺の変以後には亡き主君への忠義と愛情を示しつつ、信長(Nobunanga)のために盛大な葬儀を挙げ、権力を掌握していく過程が述べられています。

       後半では、関白や太閤といった官名の取得、豊臣秀次一族の粛清、キリシタン迫害などが説明される一方で、朝鮮出兵に関しては秀吉自らが30万の兵を率いて大陸に乗り込み敵を蹴散らし、手を血で染めて残虐の限りを尽くしたと記されています。晩年においては、病に倒れると伏見に籠り、軍神である新八幡として自らが祀られることを望みつつ、秀頼(Findeiori)の将来を含め家康(Geiaso)に後事を託したとされています。そして、イエズス会士の通詞ロドリゲスが秀吉を見舞ったことに触れ、1598年9月に64歳でこの世を去ったと述べられていますが、内府様(Daifusama)と名乗るようになる家康が台頭するようになり、秀吉が築き上げた権勢も16年で幕を閉じたというところで秀吉の評伝は締め括られています。
    クラッソの秀吉に対する評価は冒頭において高かったにもかかわらず、年を追うごとに残忍性や野心、猜疑心が増していき評価を下げています。その一方で「本音と建て前」に近似している政治的な「偽りと欺瞞」という観点からも秀吉の人間像に迫ろうとしています。例を挙げると、「友情は権力基盤であるため、近寄ってくる友人を愛する、あるいは愛する振りをすべきであることを秀吉は知っていた」「秀吉はキリスト教に寛容であるが、それは真の分別から生じたものではなく、キリスト教徒の商人が役に立つからであり、引いては戦の時に彼らがいると助かるからだ」などがあります。17世紀西欧において「偽りと欺瞞」(Dissimulazione e Inganno)という政治的態度は、統治術の一つとして重要視されていたため盛んに議論にされ、関連書籍も多く出版されていました。
    また17世紀当時のイタリアの著述家たちのあいだでは、「タキトゥス主義」という歴史著述スタイルが流行していました。このタキトゥス主義は、帝政ロ ーマ時代の歴史家コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55年頃 – 120年頃)の著作『年代記』や『同時代史』に見られるような、歴史の変遷を振り返るなかで政治的教訓を見出そうとする著述スタイルです。タキトゥスは共和政ローマに憧憬を抱き、独裁君主的なローマ皇帝ティベリウス(Tiberius, 紀元前42年‐紀元後37年)に批判的であった一方で、安定した統治を展開していくうえでは独裁政治も止む無しというスタンスで上記の著作を著していました。とはいえタキトゥスは、理想とした共和制ローマ時代の最高意思決定機関であった元老院を軽視するなど独裁傾向の強かった、ティベリウスやドミティアヌスといったローマ皇帝に低い評価を与えています。特に反対派を粛清するなど恐怖政治を敷いたティベリウスに対しては、「悪帝」と手厳しい評価を下しています。
 16~17世紀のヨーロッパでは、タキトゥスの生きた時代と同じような状況に陥っており、迅速な意思決定により容易に国力を集中できる、いわば専制的な絶対王政国家(スぺイン、フランス等)が台頭しつつありました。とりわけイタリアの著述家たちは、ギリシア・ローマの共和政や民主政を理想としながらも、合理的統治という観点において絶対王政国家の優位性を現実として容認せざるを得ない状況にあり、その理想と現実とのギャップを埋めるタキトゥス主義が、彼らにとって非常に好都合な著述形式として捉えられ、広く浸透していったのです。
    クラッソもその例外ではなく、秀吉を「日本のティベリウス」と断じています。クラッソの記述に認められる「偽りと欺瞞」、「タキトゥス主義」という着眼点は、このような当時の西欧の思想潮流から説明することができるものであり、ここに弁護士で文筆家でもあったクラッソの教養の深さを推し量ることができます。
    さらにクラッソは秀吉の性格や風貌を、「吝嗇で好色家にして不潔」、「体は小さいが丈夫で、気性が荒く、田舎臭い」と評しています。評伝に付された秀吉の肖像画を瞥見するところでは、不潔で田舎臭いといったネガティブな印象を受けることはありません。イタリア貴族然とした高貴さすら漂っています。『著名武将列伝』に付された各武将の銅版画の作者は現在のところ明らかになっていません。この作者が明らかとなれば、クラッソの記述と銅版画による肖像の乖離の真相を明らかにすることができるかもしれません。

2.徳川家康
 『著名武将列伝』の47‐51頁では、「内府様:日本の皇帝」が取り上げられています。こちらも先ほど紹介した豊臣秀吉と同様に、皆さんがご存知の徳川家康の肖像とは似ても似つかぬ西洋人の出で立ちをしております。

(Daifusama Imperatore del Giappone)こと、徳川家康
徳川家康(Daifusama)

 さて、家康についての評伝は、「彼の日本皇帝、古くは家康(Geiaso)と言い、後に人々から内府(Daifu)、内府様(Daifdusama)と呼ばれるようになった」という説明で始まります。次いで家康が高貴な家の生まれであることに触れ、生まれ持っての用意周到さで悪事をはたらきつつ病床の秀吉に巧みに近づき、自らが優位に立つよう工作、秀吉の死に際しては、「家康は顔で悲しみ、心の内では笑いが止まらなかった」と記されています。
 そして秀吉の死後、家康の増長が目立つようになり、激しい派閥闘争へと発展、石田三成(Gibunosci, 治部少輔)襲撃と思われる記述へとつづき、再度返り咲いた三成が上杉景勝(Canghecaschi)や小西行長(摂津守アゴスティーノ:Tzunocami Agostino)の力を借りて、家康と対峙するものの、敗者となった三成と行長は囚われの身となり、宇喜多秀家(中納言、備前領主:Cinagondono Rè di Bigen)に至っては戦死、毛利輝元(毛利殿、山口領主:Moridono Rè di Amangucci)は、「守備していた大坂(Ozaca)へと逃げ帰り、後に卑怯にも降伏した」と明記されています。このようにクラッソによる家康の評伝は、クラッソの筆力により凝縮された内容となっている一方で、曖昧模糊とした具体例に欠いた記述が多く、我々が知るところの歴史的事実とは異なった事例が随所に散見されます。
    関ケ原以後の家康についての評伝は、敵対領主に対する厳しい処断により急速に権力基盤を固め、六十六国を治める皇帝の座に就く様子が手短に描かれていきます。このくだりにおいて特徴的な記述として挙げられるのは、数多の有力者の支持を集める至った要因を、「卑しい出自の秀吉とは異なり、家康が高貴な血を引く出自であるため」としている点、キリスト教がもたらす利益を家康が愛した一方で、その教えを酷く嫌ったとしている点です。とりわけ後者については、「カトリックの敵、イギリス人、オランダ人の到来後は迫害の勢いは急速に増していった」とも記されています。
 家康の評伝は更に続き、彼の最晩年にさしかかる大坂の陣についても、その経緯が記されています。そこでは家康が狡猾に大坂を手に入れた顛末、老若男女の別なく行われた虐殺、大坂城内の財宝も火災で失われる様子が描かれています。秀頼については幸運にも北国に逃れたとされており、秀頼が健在であったため、家康は権力を完全に掌握しても少々浮かぬ顔をしていたとも記されています。
   家康最晩年については、日本の全ての城郭を破却し、キリスト教信者には、根絶やしにするほどに苛烈な態度で臨むようになったとしたうえで、後世にも語り継がれるように、より天に近い山に自らの墓地を築くように遺言を残し、1616年に73歳で亡くなったとして、その生涯が締め括られています。
評伝末尾では、家康の容姿や性格が端的に述べられており、「恰幅の良い中背で陰気な目をしている」「徳を持ち合わせているものの、邪悪、貪欲、尊大、狡猾に塗れている」「武力に訴えず、協議により勝利を得ていた」とのクラッソの家康に対する評価が添えられています。
   このように見ていきますと、クラッソによる家康評は、秀吉と同様に「偽りと欺瞞」、「本音と建て前」といった17世紀イタリアの政治思想や統治術の文脈から語られていることがわかります。一方で、家康と秀吉の差異を血統の尊卑貴賤と結び付けることで、家康の能力を高く評価しているようにも見え、貴族の出であったクラッソの基層観念を垣間見ることのできるのは、非常に興味深い点かと思われます。

1 ピアヌーラはナポリに西方に位置する町。
2 Biografia universale antica e moderna ossia Storia per alfabeto della vita pubblica e privata di tutte le persone che si distinsero per opere, azioni, talenti, virtù e delitti. Vol. XVI. Venezia, Gio. Battista Missiaglia, 1823. pp. 86-87.
3 Nicolo Toppi, Biblioteca Napoletana, et apparato a gli huomini illustri in lettere di Napoli, e del regno delle famiglie, terre, citta, e religioni, che sono nello stesso regno. Dalle loro origine, per tuto l’anno 1678, Napoli, Antonio Bulifon, 1678. p. 190.
4 政治・神学的問題にはあえて触れず、閑暇(ozio)のなかで、科学・哲学・文学と緩やかに戯れるために1611年に設立されたアカデミー。
5 Roscio Giulio, Pompilio Totti, Ritratti et elogii di capitani illustri, Roma, Andrea Fei, 1635.

(執筆:小川仁)

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