マッフェイ著『東インド史』(1589年)

出版年 1589年
著者 マッフェイ
出版地 フィレンツェ
言語 イタリア語
イタリア
分類 イエズス会

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解説

 本解説では、イエズス会の海外布教活動が一つの歴史書として纏められあげている『東インド史』(1588)のイタリア語版(1589)及び、その著者でありイタリア人イエズス会士であったジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536?~1603)について取り上げます。

〈マッフェイの人物像〉

Giovanni Pietro Maffei
Maffei(ウィーン美術史博物館所蔵)

『東インド史』を著したマッフェイは、1536年にイタリア北部の都市ベルガモで生まれています。ヴァチカン図書館管理人であった母方の叔父の影響もあり、マッフェイは幼少時より深い教養を身につけていきました[1]。1563~1564年にジェノヴァにおいて修辞学教授やジェノヴァ共和国秘書官などを務めたのち、1565年にローマでイエズス会に入会、ローマのイエズス会修錬院や学院で神学などの学問を修める傍ら、歴史書や人物伝執筆への意欲を高めていき、1571年に司祭に叙階されています。そして同年にポルトガル人イエズス会士マヌエル・ダ・コスタ(Manuel da Costa, 1541~1604)が編んだ未刊手稿「東方布教史」(Historia da missões do Oriente)をラテン語に翻訳[2]、1585年には『イグナチウス・デ・ロヨラ伝』[3]を出版するなど、イエズス会において著述家としての地位を築き上げていったのでした。

〈『東インド史』の出版に至る経緯〉

 『東インド史』は、イエズス会により出版された書簡集や、非公開のイエズス会文書を用いてイエズス会による布教成果を一つの報告書としてラテン語により1588年にまとめ上げられた著作です。本解説で取り上げているイタリア語版は、フランチェスコ・セルドナーティ(Francesco Serdonati, 1540~1602)の翻訳により1589年にヴェネツィア・フィレンツェで出版されています。
 マッフェイは、冒頭でも触れたダ・コスタの「東方布教史」の内容に強い疑問を抱いていました。というのも、著作内で引用されていた東インド・日本発信書簡には、数多くの誤謬が含まれていたからです。そのことによりマッフェイは、正確な情報に根差したイエズス会東インド布教活動報告執筆の必要性を痛切に感じ、『東インド史』を著したのでした。その一方で、マッフェイを『東インド史』執筆へと向かわせた背景には、1585年にローマを訪れた天正遣欧使節との邂逅も深く関係しているといわれています[4]
 またマッフェイは来日することはありませんでしたが、イエズス会による日本での布教活動にも影響を及ぼしています。マッフェイは日本で活動するイエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノを介して、日本で布教活動に従事し文章にも長けたルイス・フロイスに、イエズス会布教史の日本編として、日本の布教状況ばかりか、日本という国の情勢も詳細に記した「日本史」の執筆を促したのでした[5]。フロイスの「日本史」は、安土・桃山期の日本の状況を理解する上で、現在でも第一級の史料です。この点を鑑みてもマッフェイが当代随一の歴史家であったことが見て取れます。しかし、フロイスの「日本史」はマッフェイの手に届かず、最終的にヴァリニャーノから得た日本情報を『東インド史』に用いました。

〈『東インド史』の概要〉

 『東インド史』はザビエルの事蹟に則り、アフリカ、インド、東南アジア、日本での布教、新大陸での布教について紙面が割かれていますが、現地の文化、習慣、地誌といった視点も多彩に盛り込まれています。とりわけ日本については、主に480頁後段から495頁まで記述されています。ポルトガル人イエズス会士ガスパール・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1525~1572)の日本発信書簡や、フロイス執筆の日本年報冒頭に記載されることの多い、下(Ximo)、四国(Xicoco)、都(Meaco)の説明、中国、五島列島との位置関係、気候、山岳と比叡山、植生、家畜の解説にはじまります。マッフェイの日本記述を記載順に端的にまとめますと、以下のようになります。
 日本の文化・習俗の項目(483~486ページ)は、断片的で短い解説が多いのが特徴です。日本人の忍耐力、食事の作法、日本酒(米製ワイン)の飲酒習慣、茶の作法、茶道具の価値、日本刀の価値、比叡山焼き討ちの経緯、日本語についての解説、長刀の使用法、着物、靴、日傘、色彩と歓喜の関連性(喜びの色としての黒と赤、悲しみの色としての白)、臭いの感じ方、白湯を好む習慣、おはぐろ、公での歩き方、乗馬法、敬意を持った態度(靴を脱ぎ、屋内で靴を脱ぐ)、看病(ヨーロッパと違い、病人に塩辛い物を与える)等々、記述が非常に多岐に亘っています。
 次いで487ページから488ページ前半にかけても短く細切れに議論が展開されていきます。まず、日本の爵位について触れ、殿たち(Toni)はヨーロッパと同様にいくつか種類があり、王(Re)、公爵(Duco)、侯爵(Marchese)、伯爵(Conte)のような位階の存在を示唆しています。一方で善悪について議論が移ると、ヨーロッパと日本の善悪の判断基準が似通っている点にも着目しています。
 マッフェイの日本報告は尚も多彩な議論が続き、日本人の性質について多角的に論じていくととなります。488ページ前半では、僧兵をマルタ騎士団のようだと比喩し、学僧の教養について言及したうえで、キリスト教の浸透しやすさを説いています。488ページ後半からは、武士の日常、庶民の生活の解説、商店・技術者の水準の高さへの驚嘆を記したうえで、日本人の性格を詳しく解説していくこととなり、489ページへと引き継がれていきます。まず、優秀で器用な日本人は名誉を重んじる一方、侮蔑を嫌い、互いに敬意を抱くことを常としているため、安価な製品を作る職人にも敬意を払い、そうしないと職人は仕事を放棄すると指摘します。さらには、日本人は自制心があり、腹を立ててもそれを表には出さず、嫌なことや不幸が降りかかっても感情を表に出さないといった点にも着目しています。
 次いでマッフェイは、490ページ前半部において、下克上と権力者の栄枯盛衰について軽く触れたうえで、491ページまで日本の宗教について紙面を割くこととなります。マッフェイは日本の宗教を善悪判断が悲劇的に間違えていると断じてやみません。そして勢いのままに、民衆は坊主(Bonzi)たちの説教を通して阿弥陀や釈迦の教えを理解し、それにより狂気と極悪の間を歩むこととなるとまで言い及んでおり、日本で主に信仰されている仏教をルター派のようだと断じます。次いで神・仏の説明に移り、来世の福を司る仏(Fotoques)とし、現世の福を司るものが神々(Camis)としており、かつて王やその子息、武勇を上げたものが神々(Camis)として崇め奉られることがあると説明しています。しかしながらマッフェイは、これらは馬鹿げた話で、ギリシア神話のジュピター、サトゥルヌス、バッカスのようだという評価を下してます。そして、上記の議論を踏まえながら、日本人のあいだでは、神(Dei)から賜った真理の原理がすでに根絶しているが故に、知識の教え(del magistero della coscienza)を忘れてしまい、羞恥の箍(i serramim della pudicizia)が外れ、節度無く享楽を貪るようになると糾弾するにいたっています。
 ひとしきり日本の宗教について論じてからは、マッフェイの日本報告は再度断片的となります。492ページから493ページ前半までは、刀の使い方等の議論が続き、戦時における村落の破壊、落武者狩り、山賊の所業、水軍について言及しています。次いで貧者、病人の生活、日本人がキリスト教における貧者の喜捨を肯定的に評価している点に触れています。そして、犯罪者の処刑の様子、謀反を企てたものに対する処遇、犯罪者の裁き方等、日本の司法で議論が推移すると、領主に付帯する絶大な生殺与奪権、民衆を顧みない権力者による横柄で恣意的な統治に批判の矛先を向けます。
 さらにマッフェイは日本の司法とそれに伴う領主の絶大な権力を視座しながら、493ページ後半から494ページにかけて、日本の政治状況と統治システムへと議論の焦点を絞っていきます。まず日本の統治では、恐れが物事を支配し、それが憎しみへと繋がり、反乱や一揆が頻発、王座は不安定で継承は稀であると解説します。この流れを受け、具体例として、日本は王(Vo)あるいは内裏(Dair)と呼ばれる唯一の皇帝(Imperatore)のもとで支配されていたものの次第に蔑まされるようになり、軍人(huomini militari)が領主(Signori)を苦しめ、仕えることも軽んじるようになり、各領土は奪い合いとなり細かく分かれていったとしています。そしてついには、内裏に残された唯一の権利は、勢力に応じて名誉の称号(i vocaboli d’honore)を分け与えることのみとなり、それを用いて大金を集め、各権力者から有難がられるような神性(dignità)保持するに至ったと解説しています。そうしたなか、全日本人の間で最も権力を持つものは、天下(Tensa)という名の下、都(Meaco)とその近親諸国を支配するとしており、これらの土地が、当初は暴君(Tiranno)信長に支配されていたものの、2年前に謀反人に殺され、引き続き羽柴(Faxiba)が暴力で以って、その座(天下)についたと綴っています。
 494ページ以降では、「日本の習慣、秩序を理解してもらうには、より多くの紙面を割く必要があるために、これ以上は書かない」と一旦議論は打ち切られます。その上で、モルッカ諸島総督にして年代記記者であったポルトガル人アントーニオ・ガルヴァン(António Galvão, 1490~1557)により、スペイン・ポルトガルの周航や発見の記録として纏め上げられた地理書『諸国新旧発見記』(1563)[6]を、マッフェイは引き合いに出しつつ、3人のポルトガル人が1542年に初めて日本に上陸した旨に言及して、主な日本記述を締めくくっています。
 マッフェイの日本記述で多く見られるのは、その都度、日本とヨーロッパを比較して論じている点にあると言えます。前半部において日本の食事作法や礼儀作法、服装、服飾を取り上げる際には、「ヨーロッパでは帽子をとり、日本では靴を脱ぐ」等の具体例にみられるような、日本人とヨーロッパ人の異なる行動様式を通して、日欧の文化・風習の差異を強調しています。一方、後半部では、前半の相対主義的レトリックを引き継ぎながら、ギリシア神話やヨーロッパの爵位を持ち出したりする等、自らに引き寄せて日本の制度を理解しようとした態度が見て取れます。

(執筆:小川仁)

*マッフェイ著『東インド史』(1589年、ff. 333r~336v)で取り上げられている祇園祭の様子に関しては「イエズス会士が見た祇園祭」を参照されたい。

参考文献

[1]マッフェイの評伝に関しては、以下のウェブサイトを参照した。Dizionario Biografico degli Italiani – Volume 67(2006).

[2]1571年にドイツのディリンゲンより出版されている。書誌は以下の通り。

RERUM A SOCIETATE JESU IN ORIENTE GESTARUM, Dillingen, apud Sebaldum Mayer, 1571.

[3]DE VITA ET MORIBUS IGNATII LOIOLAE Roma, apud Franciscum Zannettum,1585.

[4]Donald F. Lach, Asia in the making of Europe Volume I: The Century of Discovery Book 1, University of Chicago Press, Chicago, 1965. pp. 324-325.

[5]Ibid., pp. 325, 686.

[6]António Galvão, TRATADO. Que compôs o nobre & notauel capitão Antonio Galuão,dos diuerdos & desuayrados caminhos, por onde nos tempos passados a pimenta & espesearia veyo da Indias ás nossas partes & assi de todos os descobrimentos antigos & modernos, que são feitos ate a era de mil & quinhentos & cincoenta. Lisboa, Impressa em casa de Ioam da Barreira, 1563.

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