欧文史料に見る大阪の陣

展示品<9>

7. マテイス・テン・ブルッケおよびエルベルト・ワウテルセンより〔平戸商館長宛〕書簡、京都、1615年6月11日付〔慶長20年5月15日〕ハーグ国立文書館所蔵(NFJ 276, fos. 21v-22v)

〔和訳〕
拝啓 将軍様〔家康〕およびその息子である江戸の王〔秀忠〕が他の大名達と共に、秀頼様に戦争を仕掛けるために当地の京都および伏見に来ていることについては以前に貴殿へ報告した。当〔6〕月2日に将軍、その息子および全軍は、秀頼の城を攻囲するために大坂へ向けて出発し、同月3日に到着した。前述の秀頼方の数人の大名が赦免を得ることを望んで、将軍側に寝返るために城に火を付けたが、彼等は逃げられるよりも先に秀頼〔方〕によってその場でそれぞれ投げ殺された。また、その火事を消すことは不可能であったため、戦う勇気を失った秀頼と他の大名達は切腹し、それによって間もなく将軍は、自軍における死傷者数が少ないまま城を奪還した。それに対して、秀頼の家臣のほとんど、および兵士やその他の者約一万人が命を落とした。また、同様に、大坂の川の東側のほとんどの家が全焼したと言われている。《後略》

〔解説〕
落城間際の惨状が伝わる記録。『大日本史料』には、豊臣方の料理人が反逆して火を付けたとあるが、料理人ではなく、「数人の大名」つまり豊臣方の武将が寝返ったという本書簡における記述は、日本側史料にはない新しい情報である。